2005年04月18日

西田直養『筱舎漫筆』巻十「皇国文章」

皇国の文章といふもの、西土のごとくおのがこゝろざしをいひ、思ひをのぶる為につくりしものにあらず。むかしは神にまうす祝詞と、臣下に令す詔詞と、御世々々の事をしるす日次のふみとの三よりほかになし。あるは出雲風土記の国引の詞、また神寿、室寿のものにてほかになし。いまの和文とてかくは、古今の序。大井川行幸の序などを祖とすべし。この文章のこと別にいふべし。
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西田直養『筱舎漫筆』巻九「国風文章論」

皇国風の文字を論ずるに、上古風
 室寿詞 書記顕宗紀  法隆寺薬師造像記 推古十五年
 古事記 元明和銅四年 出雲風土記 同六年
 日本紀 元正養老四年
 詔詞
この七部なり、このなかより文藻をえり出すべし。
 中古風
竹取 伊勢 土佐〔割註〕古今序、大井川行幸序、庚申夜奉歌序。」
 下古風
宇津保〔割註〕此書竹取とひとしくふるきものながら、文体はふるからず。」より以下、源氏、狭衣にいたるまでの物語、日記、草紙をばすべていふ。さて右の三等にて、皇国風の文章は備はり、下古の文章は、さま/\の物語類をばむねとみずとも、只々源氏物語を見るべきなり。中古は三部ともにみるべし。さるをいま文章かゝむずる時は、下古の文法によるべけれど、中古風をよく腹にいれおかざれば、文章めゝしくて雄々しからず。その中古の中にも、いせ尤よし。さすれば伊勢、源氏の二部にて、文章は明らかなり。

随筆大成旧2-2,p200
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2005年03月20日

和訓栞大綱(53)

○言語の古今あるは日本紀萬葉集の詞今と大に異れり また詠歌大概に詞は三代集に出へからすといへり されと古今集の詞といへとも好みよむまじきありともいへり 口語も又同しきにや 徒然草に古へは車もたげよ火かゝげよとこそいひしをもてあげよかきあげよといふロをしと書り てあ反た きあ反かなれハ緩急の異ながら古今の雅俗にわたれり 貴賎の詞もまた同しにて清少納言もげすの詞には必すもじあまりしたりといへり 謝在杭も稔謂有質於古而増於今者陋可知也といへるぞけにとおぼえ侍る
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2005年03月13日

藤岡作太郎『国文学全史平安朝篇』「竹取物語」(抄)

 書中の記事は確かに竹取の時代を定むる根拠たるに足らずといへども、文体を見れば、その古樸なる風容、必ず宇津保、源氏に先だち、貫之の散文にも先だてるを知るべし。平安中世以後の散文は、殊に女性的になりて、悠長にして繊弱、糸を以て珠《たま》を貫けるが如く、尽きんとして尽きざるに、竹取はこれに反して簡潔にして遒勁なり。而してまた奈良朝の如く接続詞を濫用することも失せ、「こゝに」「こゝを以て」「故《かれ》」、「また」などの詞を見ること稀なれば、ふと見れば、その文章は奈良朝よりも却りて個々分立したる趣あり。試みに竹取の一例を挙げん。

竜の首の玉取り得ずは、帰り来なと宣へば、いづちも/\足の向きたらん方へ往なんとす。かゝるすきごとをしたまふことと誹りあへり。賜はせたる物はおの/\分けつゝとり、或は己が家に籠り居、或は己がゆかまほしきところへ往ぬ。親、君と申すとも、かくつきなきことを仰せたまふことと、ことゆかぬものゆゑ、大納言を誹りあひたり。


 されど弖爾波、助動詞等の使用のやゝ自由に、しかもその意義の差別の精密になりゆきたるは争ふべからず。また言語の古くして、平安中世以来に見難きも少からず。たとえば「くど」(窓)、「けご」(家子)、「つく」、「あなゝひ」(麻柱)といふが如き、「いろふ」(彩色す)、「によふ」(うめく)というが如き、「舟のうちをなんせめて見る」、「ある国の人をえ戦はぬなり」といふが如し。要するに竹取物語はその文章より見ても、到底、延喜以来のものにあらざるべく、さりとて弘仁の詩文全盛の世、仮名の弘通もいまだしき時に、かゝるものを見るべくもあらず。貞観より延喜まで三四十年の間に出来たりと見るを、穏当なりとすべし。





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藤岡作太郎『国文学全史平安朝篇』「伊勢物語」(抄)

 かくの如く論じ来れば、事実の研究は一も伊勢物語の時代を定むるに足らず。しかるを先人多くはこれに拘泥して弁証す。甲論じ、乙駁して、しかも定論の結着するを見ざるなり。何ぞ更に方向を転じ、文章について考へ、これを当時の他のものと比較して、その時代と価値とを定めざるや。

 議論はしばらく措きて、更に伊勢物語を一読すれば、その文のいかに簡潔にして質素なるよ。平安朝の文体は、貫之の頃より、漸く修飾多く、繊麗にして絢爛ならんことをのみ務めたるが、竹取物語と伊勢物語とはこの弊なく、却って簡素を主とすれば、土佐日記より古かるべし。而して簡素なる点においては、伊勢のかた竹取よりもまさりたれど、その書の種類の異なるより、文章もおのずから異ならざるべからざれば、強ち伊勢を竹取より古しとも定めがたく、概するに二者ともに延喜以前のものなるべし。果してしからば、伊勢物語の作られたるは、大やうは業平の時代なり。而してその歌は概ね業平の詠にして、伝へて在五中将の日記ともいへば、これを業平とせんこと、当らずといへども遠からざるべし。

 もとより文体の異同は、作者の異同により、これを以て時代の前後を判じやすからずといへども、大体の区別はまた時代によりて識別せられずんばあらず。奈良朝までは歌文ともに極めて簡素なり。祝詞、宣命、古事記の文、もしくは長歌の如き、脈絡長く続けたるもありといへども、その句法は甚だ単純なり。万葉集の歌には、短歌も二三節に断れたるもの多し。されば平安初期の散文は、この風を受けて、文章極めて短く、きれ%\に断れて、いふところも甚だ簡短なりしを、貫之以来、やうやく思想と文章と共に複雑に、特に女性の文に至りては、優長に流れたり。竹取物語の文に曰く、

翁、うれしくものたまふものかなといふ。翁年七十に余りぬ、今日とも明日とも知らず。この世の人は、男は女に合ふことをす、女は男に合ふことをす。その後なん門も広くなり侍る。いかでかさることなくてはおはしまさん。かぐや姫のいはく、なでふさることか為はべらんといへば、云々


 伊勢物語に曰く、

昔、わかき男けしうはあらぬ女を思ひけり。さかしらする親ありて、おもひもぞつくとて、この女を外へ逐ひやらんとす。さこそいへ、まだ逐ひやらず。人の子なれば、心の勢なくて、得留めず、女も賤しければ、すまふ力なし。さる間におもひはいやまさりにまさる。にはかに親この女を逐ひ棄つ。男血の涙を流せども留むるよしなし、率て出でていぬ。云々


 その文の簡潔質素なる、これを以てその一端を知るべし。そも/\二書の文は、これを修飾すべき形容詞、副詞も多からず、接続詞も少く、奈良朝までに多く用いたる「こゝに」、「こゝをもて」、「故《かれ》」、「又《また》」などは稀になりゆきて、「さて」などの簡単なるものあるのみ。弖爾波はもとより奈良朝よりも数多く、使用も自在になりたれど、なほ延喜以後の如く饒多ならず、文脈の理路に関するものはもとよりこれあれども、文勢の弛張に関するは甚だ少し。「なん」最も多く、「ぞ」も「こそ」もあれど、土佐日記の多きに比すべくもあらず。

 過去の助動詞の「き」(し、しか)は伊勢物語に用ひず、古今集の和歌の端書もしかり、竹取物語は草紙地には「けり」(ける、けれ)を用い、対話には「き」を用ふ。要するに伊勢の文は簡古を以てすぐれたるもの、その内容も併せて単純に、痛切なる感情を直白して飾らず。敢て竹取の如く、外国文学の影響あるにあらず、強ひてこれを求むれば、その歌に人生を朝露とはかなみ、落花と惜み、もしくは鶏卵《とりのこ》を十づゝ十は重ぬともといひ、行く水に数かくよりもといへるが如き比喩を用ふることにて、これらは文選等に得たるものといはんか。

 伊勢物語は、記事の神異なること、竹取物語に等しきものあるにあらず、結構の整美なること、源氏物語の類にもあらず、和歌を主眼として、その前後の始末をしるしたるものにて、或はこれを以て一の歌集に擬するものあれども、それは穏かならず。その文は歌の小序たるに止まらずして、別に趣味饒多なる談柄を添へ、歌文相待って、その妙いふべからず。毎篇個々独立して、組織の聯絡なしといへども、なほ多情多涙なる主人公の性格は前後を一貫して、片々の珠を繋ぐ糸となる。直ちに人性の奥に突入して、虚飾なく、余談なく、真情流露して、人の肺腑に入るもの、これをこの物語の長所とす。

 竹取物語の条において述べたるが如く、わが国古代の文学には滑稽の分子多く、平安第二期までは殊にこの傾向を帯びて、沈鬱悲痛の趣少なし。記紀の歌については一言せり、万葉集巻十六また諧謔の詠多し。竹取物語も前陳の如く、古今集には俳諧の一体あり。土佐日記は屡々滑稽の言を弄し、落窪物語には可笑のことわけて多し。伊勢物語また時に滑稽の事柄なきにあらずといへども、こはわけて挙ぐべきほどにもあらず。たゞ著者がその和歌を詠ぜし由来を記するに当りて、機智を弄し、別に仮設の譚を設けて、強ひて実際に違はしめ、読者をして覚えず案を拍ちて呵々大笑せしむるもの、これまた一種の滑稽にして、これをこの物語の一の特性とす。たとへば第五十段の歌、

   わがうへに露ぞおくなる天の川とわたる船の櫂のしづくか

とあるは、古今集にも出でてその実は七夕の夜、衣の袖の冷やかなるに、天を眺めての歌なるべし。しかるを物語には、「かくて物いたう病みて死にいりたりければ、面に水灌ぎなどして、息出でて」と作りなせり。次の段に、

   五月まつ花たちばなの香をかげばむかしの人の袖のかぞする

とあるも、古今集に出で、まことは庭の面の花橘の追風に懐旧の情を述べたる歌なるべきを、物語には、とりて一個の小話に編みたり。また第八十二段の歌、

   あかなくにまだきも月の隠るゝか山の端にげて入れずもあらなむ

といふは、物語にも、古今集にも、惟喬親王の退座を惜み、入る月に託してこれを留むるものとす。されどその実は単に月を惜しめる詠にほかならざるを、寓意あるものとせるは、例の伊勢物語の作意に出でたるを妄信し、これによりて、古今集の小序をも改めたるなりとは、香川景樹の弁ずるところなり。

 かくして伊勢物語には、和歌とこれを作れる事情とを事実のまゝに記せるところもあり、ことさらに事情を捏造して、興味を添へたるところもありて、後世より弁じ易からず。たゞにこれのみならず、詠歌は業平の歌もとより多しといへども、他の万葉集その他に出でたる歌をも取り来りて、主人公すなはち業平の詠とす。これを取れるや、ほとんどもとのまゝなるもあり、少しく変更を試みたるもあり、また二首を一首に調合したるもあり、放胆洒落、彼我の別を没したるは、作者が興に乗じ筆に任せて揮灑したるに因る。これによりてすでに評者を迷はしむるに足るを、なほ後人がその後の歌を〓入せるあり、真偽混交して、以て区々の論を起さしむ。難いかな、玉石を識別すること。

 しかれどもなお更に伊勢物語を熟読せよ。その文の、詞簡にして意幽に、感懐の痛切なること、業平の歌とその軌を同じくするを見れば、この一篇をまた在五の作と推すも、蓋し大過なかるべし。嗚呼、業平の長所はすなはち短所なり。感情の横溢するに任せて、想を練らず、読はを琢かず、真率に過ぎて、時には児童の言の如くなるもあり。惜しいかな、天才は刻苦経営の功を積みがたく、わずかに真理の一面を発揮して止むもの多し、業平もこの弊に陥りて、ついに後進貫之をして別に大名を揚げしむ。さはいへ在五中将の名の永く後世に喧伝して朽ちざることを思へば、業平もまた偉人なりといふべし。

 而してその名の後世に喧伝するは、その歌のすぐれたるにもよるべしといへども、主として伊勢物語一篇の存するによらずんばあらず。この一篇は伝はりて後の国文の模範となりぬ。源氏物語の如き大著もまたこれに得るところありしがごとし。業平が九十九髪の媼を愛することを記して「世の中の例として、思ひおもはぬ人もあるを、この人はそのけぢめ見せぬ心なんありける」といへるは、やがて転じて光源氏の品性と化生したるものにあらずや。かくの如く後世に影響せしことを思ふに、平安朝の半ばになり末に移るに従ひて、風俗益々軽靡に流れ、和歌も恋の歌のみ尚び用いらるゝに至りしが如き、業平もまたその責に任ぜざるべからざるか。





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細江逸記『動詞時制の研究』第4章・§18(抄)

なお,ついでに私が§7,(b)に引いたわが国語のいわゆる『詠嘆』の「けり」すなわち
常磐(ときわ)なる松の緑も春来れば今一しほの色まさりけり  (古今集,巻1)
手枕のすき間の風も寒かりき身はならはしのものにぞありける (拾遺集,巻14)
父上よ今朝はいかにと手をつきて問ふ子を見れば死なれざりけり (故落合直文先生)

なども皆この類"Past Tense"に属し,そして前前節に説いたImperfect同様,時の区別を離れていわば現在的な,しかも余韻嫋(じよう)々たる陳述をなしている。山田博士はこの「けり」を説いて『現実を基本として,これにより回想を起こすなり』と説き,単純な回想の「き」と区別し,従来の学説に満足な説明のなかったことを嘆き,最後に『今かくのごとく解して初めて心安きを得たり』と言っておられる1が,私には,失礼ながらこの「けり」と『昔男ありけり』などの「けり」との関係が明示されていないように思われて,依然として心の安きを得がたい。私がこの「けり」をば§7,(b)では英語の"Tot was mother's darling!"スゥェーデン語の"Det vas trakigt"と同列に置きながら,前節に含めずに本章に分けた理由は次次節で明りょうにするが,山田博士が説き残されたと思われる点に関する私の考えも同時に略説するであろう。


 1. 『日本文法論』411ページ。
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細江逸記『動詞時制の研究』第3章(抄)

またこれをわが国語に見られるところと比較して考えると,

   わが心春の山べにあくがれてながながし日をけふも暮しつ   (新古今集,巻1)

は"Present Perfect"的であるが,

   わが心慰めかねつ更科(さらしな)やをばすて山に照る月を見て (大和物語,151段)

は"Present"的であり,

   万葉学のためにもまた光栄のきはみといひつべし

            (佐々木博士,『心の花』本年6月号)

は広い意味の"Present"であるとめ認られる。
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細江逸記『動詞時制の研究』第2章(抄)

この用法はいうまでもなく古くから"Historical Present"と称し,またJespersenが"Dramatic Present"と名づけた(Tid of Tempus, V.385)ものであるが,一般に言い継ぎ語り継がれている説明によれば,過去の事柄を眼前に躍如たらしめるためにこの語形を用いるというが,私見によればこのようなのは修辞学または文体学または文芸技巧上の説明であって言語学ないし文法学上の説明ではない。すなわち上に引いたHamletの例についていえば,修辞学を説くものは過去に幽霊の出現した事実を眼前に躍如たらしめるために"Present Tense"の語形を用いたと説くのもよいが,それはShakespeareの立場から芸術的見地に立ってなした説明であって言語学上また文法学上は無価値に近い。言語の原理を説くもの,文法の説明をなすものは効果に心酔して原理を追求することを怠ってはならない。よろしくHoratioの観点に立って(この引用文はHoratioの王子Hamletに対する言葉である)この語法の存立するゆえんを説かなければまだその任を果たしたものとは言い得ない。わが国語でもこの問題は明治年代の文法学者間に正否の論議が行なわれたように私は記録によって知るのであるが,その中にはいわゆる『現在形』をもって「現在時」のできごとを表わすものとする謬見にとらわれて,あさはかにも,古往今来常見のこの語法を誤りとするか,さもなければ修辞と文法とを混同して安住し得たとした人が多かったようである。その中でようやく明徹な見解を下そうとされた学者は草野清民氏であったが,不幸にも氏は早世されたので十分に氏の説を聞くことができないのは私の最も遺憾とするところである(遺著『日本文法』12930ページ参照)1。氏に次いで,さらに数歩を進めしっかりした立場を保持して明透な学説を立てられたのは今の東北帝国大学教授文学博士出田孝雄氏で,ほとんど暗中摸索の状態にあった私の目に一条の光明を与えたものは実に私が明治43年ごろに読んだ博士の名著『日本文法論』であったので,私は終生無限の感謝を未見の恩師山田博士にささげるであろう。博士の『文法上の時の論』(同書41342ページ)には今日私の首肯しかねる点もないではないが,しかもなお金玉の文字というべきである。

(中略)

これに反してわが国文学では古くからこの用法が利用されているので,『宇陀(だ)の高城に鴫(しぎ)わな張る。わが待つや鴫はさやらず』(古事記,中巻)など数多い例の一つである。
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細江逸記『動詞時制の研究』第5章§23(抄)

この間の消息はわが国語の「む」・「べし」とほとんどその軌を一にしている。たとえば

  居り明かし今宵(こよい)は飲まむ霍公()鳥明けむ朝(あした)は鳴き渡らむぞ(万葉集,巻18)

などの「む」は,私の考えでは『今宵は飲まむ』の中の「む」とともに,『うつつにも夢にも我はもはざりき』(万葉集,巻11)などに見える「もふ」(=思う)の意の古語から出たものらしく,1その点はまたIceland語のmunu(=to think;to mean)が"Future Tense"の助動詞となった2のとも酷似している。

次に

  万代(よろずよ)に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲き渡るべし(万葉集,巻5)

などに見える「べし」は疑いもなく「はず」と同語で,それは琉球諸島および付近の言語を調べてみるとわかる。たとえば,宮良当壮氏の大著『八重山語彙(い)』119ページ以下に

   今夜は  月が  出る   だろう

  n'ikka:  tsikε: a:ro:ru  fadz' (石垣)

  n'ika:  s'ik'e: nz'iru   paz'i (鳩間)

  η:gu:ja: tt'i:  agaru  had'i (与那)

のような記載があり,氏はこの"fadzi"などが「はず」である旨を認めておられる。また古くはChamberlainも

   Unui mishocharu hazi = He is about to embark.

などの例をあげ,かつ"hazi"が「はず」であるこことを注意している (Essay in aid of a Grammar and Dictionary of the Luchuan Language,P.89)。これなどは英語の研究者にはあまり重要でない余談のように思われるかもしれないが,実は従来多くの学者を惑わした英語の"Subjunctive Mood"の歴史を会得するのに非常に参考になる基礎をなすものである。ただし,本論はむしろTenseの研究を志したものであるから,ここにはこの問題に入ることを差し控え,もし他日私にMoodを論ずる機会があったならば,その時に述べることとする。それはとにかく,前節に述べたところによって,私は"Future Tense"の本義は『想像(推測)叙述』の語形であることを明らかにできたと思うから,それだけでもこの語形が元来「想」を表示する"Subjunctive Mood"ときわめて緊密な関係にある理由はこれを悟ることができたであろうと思う。そうすれば私の当然なすべき"Future Tense"論はすでに終りを告げたことになり,ここに拙い論考の筆をおいてもよいが,思えば世間に流布する文法書に説かれているshall, willの使い分けの論には重大な誤謬と錯誤とがある3から,以下付説的にその最も顕著な事実をしるして参考に資することとする。






 1.金沢博士は「見る」から出たものと見ておられる(『日本文法論』162ページ,『日本文法新論』256ページ)。

 2.(略)

 3.少しくどいようではあるが私が今論じているのは言語学,文法学の上から最高の研究をなすもの相互のために論じているので,これで普通教育の方便的英語に触れるべきものでないことを断わっておく。


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細江逸記『動詞時制の研究』第4章・§20(抄)

ついでに私はわが国語を熱愛するから,しばらくわが国語について私の所信を述べることを許されたい。私の考えによればわが国語には古い昔にこの両者の区別が厳然としてあったので,「き」は『目睹回想』で自分が親しく経験した事柄を語るもの,「けり」は『伝承回想』で他からの伝聞を告げるのに用いられたものである。これは私自身研究の結果1おそらく誤りではあるまいと思うところであるが国学界にはまだ認められていない模様である。たとえば昭和3年版の『日本文学大系』第25巻,55ページにも
「昔男ありけり」を直ちに「昔男ありき」にするわけにはいかぬ。しからばこの二つはどうちがうか。大体「き」は単純な過去を表わすのに,「けり」は,ある時間の連続をいう心持ちがある。万葉集に「来有《ケリ》」と書いてあるのは,つまりこの意味であろう。だから,「昔男ありけり」というのは,単に過去の時に,一人の男があったというだけではなくて,その人の生存が,時間的連続があったことを表わしているのである。


とあるだけである。意味の立場からでも,この語形が私のいわゆるExpanded Formに相当するものであるように認めたのは,おそらく従来の説明から一歩を進めたものと言ってさしつかえがなかろうと思うが,私としては画竜点睛を欠くうらみがないとは言えない。詳しくは記,紀,万葉以来一切の例を調べねばならないが,それは他日の機会に譲り,ここには竹取物語を例に取ってみるのに,同書一巻はまことに整然たる区別をこの2語尾の間に立てているのである。たとえば

(1)今は昔竹取の翁といふものありけり。野出にまじりて,竹を取りつつ,万の事につかひけり。名をば讃岐造麿となむいひける。その中に,本光る竹一すぢありけり。

(2)或時は風につけて知らぬ国に吹き寄せられて,鬼のやうなるもの出で来て殺さんとしき。ある時には来し方行末も知らず,海にまぎれんとしき。或時は糧尽きて,草の根を食物としき。ある時にはいはん方なくむくつげなるもの来て,食ひかからむとしき。


など,きわめて明りょうである。明治年間の国文法学界で不幸にも早世された偉才草野清民氏はこの両語尾について,

正シキ例ドモヲ掲グレバ,きハ対談,けりハ記録的ト区別アルガ如クナレドモ,相混ジ居ルモノ多シ。

                  (『日本文法』53ページ)


と言い,故藤岡博士は

竹取物語は草紙地には「けり」(ける,けれ)を用い,対話には「き」を用う。

           (『国文学全史,平安朝編』186ページ)


と述べておられるような認識はあるが,このような使い分けが何によって存在したものかの言語学的研究ないし説明はまだ寡聞な私の耳には入らないのを,私は国語学のために非常に遺憾とする。私見によれば草紙地(記録的)に「けり」のあるのは,それが作者の言葉であって『伝承』であるか,そうでなければ自己の作意から出る事柄を『伝承』として叙述するからで,いずれも『非経験』に属し,また対話(対談)に「き」とあるのは,記述する事柄がその言者の『経験』であるか,そうでなければ『経験』として陳述するからであって,上例(2)の場合は,実は車持皇子が玉の枝を取りに遠国へ行ったと偽り,その途中でのできごとを物語っているが,事は偽りでも,人をたばかるためには経験として述べるのはもちろん,したがって言語学的にはいうまでもなく『目睹回想』の語形となっている。なおその少し先の所に皇子の虚偽が暴露におよぶ条に,皇子を恨む漢部内麿らの差し出した書状には,

(3)かしこき玉の枝を作らせ給ひて,官も賜はむと仰せ給ひき。これをこの比(ころ)案ずるに,御使とおはしますべき赫映(かぐや)姫の要じ給ふべきなりけりと承りて……


とある。これは書状の文句であるが,われわれは記録と対談草紙地と対話という言葉に誤まられて,これを記録の語と思ってはならない。これは明らかに対談に属する。そして『仰せ給ひき』は『おっしゃいました』(確かに私どもこの耳で聞きました)で,『要じ給ふべきなり也と承りて』は『お求めあそばすのじゃげなと承りまして』であって,赫映姫の要じ給ふということは,この書状の記者の親しく経験によって知るところではないが人づてに聞いたところであるから「けり」が用いられているのである。このゆえに私は『男ありき』ならばこれを『男があった』のように現代訳をなし,『男ありけり』ならば『男があったとさ』・『男があったげな』のように解すべきものと信ずる。そして「けり」は前述のとおり,これを英文法と比較対照すればExpanded Formに相当する。そしてExpanded Formは前2節で明らかにしたとおりImperfectの低回性を強調した語形で,それにはしばしば情緒が伴い余韻嫋(じよう)々の響きがある。ゆえにこの「けり」は一面『伝承回想』であると同時にまた他面では『詠嘆』の意を有する(§18末端参照)いわれも明りょうになり,「けり」の全貌が理解できて,ここに初めて心の安らぎを得るように思う。なお,「き」・「けり」については言うべきことが多くあるが,本書は国文法を説くためのものでないからここには差し控える。とにかく上のような区別は平安朝初期までは明りょうにあったが,後漸次失われてついには区別のないものと考えられるようになった3。けれども私の考えによれば鎌倉時代まではある程度残存していたようである。それはとにかく,前掲の竹取物語の例(3)の『要じ給うべきなりけりと承りて』のように,間接叙法(Indirect Narrationによって自己の伝承をさらに他に伝えるとき,ドイツ語には.

   Er sagte mir, dass seine Mutter krank ware(or sei).

    (=He told me that his mother were [or be] ill)

のようにいわゆる"Subjunctive Mood"を用いて,伝達者が伝達内容の真偽について保証の位置に立つことを避ける用法のあることは一般周知の事実である。英語でも古くは同様の用法があったので,たとえば



(略)



のようである。しかし,この語でも,伝達者がその伝達する事件の内容を信じて保証に立つ用意のあるときは,ドイツ語と同様Indicative Moodを用いて4



(略)



のようにした。










 1.もっとも私がこの研究を進めるに至った動機は大正6年9月某日岡倉由三郎先生を雑司が谷のお宅にお訪ねしたとき,先生の座談に暗示を得たことにあるので,先生はつとに私の言うところに類した区別、を「き」と「けり」との間に認めておられるように思う。ここに事の次第を明記して先生に対する感謝の意を表するとともに,もし私の説ぐところが先生のお考と異なっているならば,それは私自身の1年間にわたる研究の結果であることを断わっておく。なおこの決論も私が大正7年10月までに得たところで『動詞職能論』の一部を成したものであるが以来今日に至るまで私はこの決論を否定する理由を発見しないこともあわせて申し述べておく。



 2. たとえば,今泉定介氏著『竹取物語講義』11ページに言う。『「けり」は過去の意を示す助動詞なり。「つ」「ぬ」「たり」などよりは,さらに時を経たるにいう。「き」というにほぼ同じ。』なお序に言う。いったい言語界においては等義の二形が対立するとき,その間に意義の分化を生ずるのが普通である(ag."He has come" vs. "He is come")。それくらいであるから最初意義上の区別ある二形がもしその区別を失うと,いずれか一方が衰滅するのが普通である。しかるにわが国語において「き」・「けり」が後の世まで残ったのはなぜであるか。これも言語学者の考うべき問題である。これについても私見はあるが他日に譲る。



 3.例:女に問うていはく,これより人や渡りつるといへば,女のいふやう,やごとなき人の,軍千人ばかり具しておはしつる。今は信濃国には入り給ひぬらん。いみじき竜のやうなる馬に乗りて,飛ぶが

如くしておはしき。この小勢にては,追ひつき給ひたりとも,皆殺され給ひなん。これより帰りて,軍を多く整へてこそ追ひ給はめといひければ,誠に思ひて,大友皇子の兵皆引き返しにけり。(宇治拾遺物語巻15)







 4.わが国語でも同様の用法があった。たとえば『皇祖の遠き御代にも,おしてる難波の国に,天の下治(し)らしめしきと,今の世にたえず言ひつつ,かけまくもあやに畏(かしこ)し』(万葉集,巻20)。
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2005年02月24日

佐藤誠実「五十音考」

第二十二 五十音考 文学博士 佐藤誠実

 五十音は、吉備真備公の作れるなりとぞ、そは僧明魏の倭片仮字反切義解に、到天平勝宝年中、右丞相吉備真備公、取所通用仮字【真仮名なり】四十五字省偏傍点画、作片仮字、抑四十字、音響反阿伊宇江乎五字、此乃天地自然之倭語焉、是故竪列五字、横列十字、加入同音五字為五十字、然後弘仁天長年中、釈空海造四十七伊呂波、以便于女童、其体則草書とありて、吉備公が片仮字を作り、片仮字にて、五十音を列ねたりと云へり、さて其書の五十音の列ねやうは左の如し、

  アイウエヲ  ワイウエオ

  ヤイユヱヨ  ナニヌネノ

  タチツテト  ラリルレロ

  ハヒフヘホ  マミムメモ

  カキクケコ  サシスセソ

明魏は応永比の人にして、旧と藤原長親と云へり、仙源抄の跋を書きて、日本語に、平上去の三声あることを云へり、契沖の和字正濫要略に明魏法師と云ふ人は仮名文字遣ひを破りて、いゐをおえゑの類、みな、一つに書くべしと申されけるよし、或物に云へりとあるは、林羅山の鉄鎚に依りたるのみにて、鉄槌は、此仙源鈔の跋を見誤りたるならんか、



管弦音義【文治元年の作なり】に依りて、図を作れば、左の如し、

  阿宇伊乎衣  訶倶幾古計

  和宇焉於恵  娑須志曾世

  耶由以輿衣  婆不比保遍

  摩無美母免  羅留利呂禮

  多都知土天  奈奴仁能禰

 管弦音義には、阿行をば、初め一処には於と書き、次の二処には、乎と書きたり、今は多き方に就て、乎と書けり、



二中歴反音五音の図

  アイウエオ  カキクケコ

  サシスセソ  タチツテト

  ラリルレロ  ナニヌネノ

  ヤイユヱヨ  ワイウエオ

  ハヒフヘホ  マミムメモ



 天文本倭名類聚鈔字切の図

  羅利留禮呂  摩彌牟〓毛

  阿伊烏衣於  可枳久計古

  左之須世楚  多知津天都

  那爾奴禰乃  波比不倍保

  和焉有恵遠  夜以由江輿





韻鏡開奩【寛永四年宥朔作】直音拗音図

アイウエヲ カキクケコ

サシスセソ タチツテト

ナニヌ子ノ ハヒフヘホ

マミムメモ ヤヰユエヨ

ラリルレロ ワイウエオ

 韻鏡開奩には「アイウエヲ」の「ヱ」を又は「エ」に作り「ワイウエオ」を又は「ワヒフヘオ」に作れり、



寛永十八年開版の韻鏡の五音五位之次第は、大方韻鏡開奩に同じ、但し「アイウエヲ」「ヤイユヱヨ」に作る、



右の如く、五十音図は、種々さまざまなれども、今の世に行わるる図は、悉曇の順序に称いたれば、此図ぞ正しかるベき、されども「アイウヱヲ」の「オ」と「ワヰウヱヲ」の「ヲ」と、互に紛れたるを、本居宣長先生が、深く考へて正されしは、いとも大なる功なりけり、契沖の和字正濫鈔、文雄の和字大観鈔は、誤れる図に依りたれば、其説大に窮せり、其初めは、必ず本居先生の説の如くなりしならん、後の物ながら、ト部懐賢【後嵯峨天皇比の人】の釈日本紀に、阿伊宇江於之五音相通而称之と云い、天文本倭名類聚鈔も、上に引ける如く、阿行を於と書き、和行を遠と書きたり、いかにも、本居先生の説は動くまじき名説なり、

倭片仮字反切義解に、此五十音を吉備公の列ねたりと云へるは、如何にぞや、余は空海が悉曇を支那より伝えて後に、誰にかあらん、悉曇の順序に依りて、列ねたるかと思はるるなり、そは如何にてと云はんに、我邦に五十箇の音の備はりしことは、「エ」得と云ふ言ありて「ウ」と活用すれは、阿行の「エ」「ウ」なることを知るべく、「コエ」【肥越】と云ふ言ありて、「コユ」と活用すれば、也行の「エ」と阿行の「エ」と分ちありしことも知るぺく、「クイ」悔と云ふ言ありて「クユ」と活用すれば、此「イ」は也行なるを知るべく、「ウヽ」と云いて「ウヱ」と活用すれば、此「ウ」は和行なることを知るべきなり、爾るに、古事記、日本紀、万葉集などにも「イヰエヱオヲ」の別は、いと厳なれど「イ」「エ」の中に、阿行、也行を分くることなく、「ウ」の中に、阿行、和行を分くることなし、是れ其時代は、我邦の人は、皆阿行にのみ唱えて、五十音の中四十七音ならではなかりしなり、されば、我邦の音のみに縋りては、かく五十音を列ぬることは叶はぬことなれば、必ず依る所ありしならん、さて何にか依りしと云はんに、支那の音韻などは、此次第とは、痛く異なれば、悉曇に依れりとすべし、此図も、上に引けるが如く、いささかづつの違いはあれど、大体は、みな悉曇と同じ、この故に吉備公の作とするは疑はし、又、世に円仁の在唐記と云ふものありて、悉曇を載せて、多く真仮字にて、其音を注せり、此書、果して当時の物ならば、五十音図を作りし時には参考になりしこと多かりしならん、

倭片仮字反切義解に、吉備公が五十音を列ぬる時に、原来、四十五音にして、「イ」は阿行、也行に亘りて、一音なるを、新に二音を加えて、三音とし、「ウ」「エ」「ヲ」は阿和の二行に亘りて、各、一音づゝなるを、新に二音づゝ加えて、いずれも二音とし、字は旧の音に依りて、四十五の片仮字を作りしが、空海に至り、伊呂波を作りて、四十七字としたりと云ふ趣に記せり、是れ亦疑はし、明魏か吉備公の時の音は、今の如くなりと思ひたらんにもせよ、其時は、今日と同じく、四十四音にして、「エ」「ヱ」の別のなかりしことは、明魏より二百年許前なる、藤原信実【後鳥羽天皇比の人】が、絵師双紙【当時の書の臨写本に依る】などを見ても知らるゝことにて、四十五音はなかりしなり、又、吉備公の時には、四十七音ありしことは、万葉集などを見て知るべし、されば何人にもあれ従来の四十七音の上に三音を加えて、五十音を作れりと定むべし、

因に云ふ、吉備公が片仮字を作れりと云ふことは、古くは見えず、倭片仮字反切義解の外には、ト部兼倶が日本紀神代鈔にも見えて、片仮名は吉備大臣の作たりとありて、新井白石の同文通考には、之に依れり、其説の非なることは、已に辨へたるが如し、又、片仮字を、大和仮名と云ふことは貝原好古が、大和事始【元禄十年の作】に片仮名、吉備、之を作れり、又、之を大和仮名と云ものは、吉備公の作にして、大和国に起るを以てなりとあり、又、谷川士清の日本書紀通證【宝暦二年の作】も孝謙帝御宇、下道真備作旁仮字、曰大和仮字、桓武帝御宇、護命空海作母仮字、曰出雲国仮字とあり、是等の説は、殊に非なるべし、

契沖の和字正濫鈔【元禄六年の作】には、片仮名は、吉備公の作など云へど、させる証なし、若し常の伊呂波と共に、弘法大師の作り給へり歟と云へれど、是も亦させる証なし、又、五十音を吉備公の作なりと云ふは、倭片仮字反切義解の外には、殊に古くは見えず、日本書紀通證に、世伝五音相通図振之之音、而吉備公為五字十行、書以旁仮字と云へるは、倭片仮字反切義解に依りて誤れるならん、思ふに、斯る説は、伊呂波草仮字を、共に空海の作なりと云へるからに、五十音、片仮字を真備の作なりと云ひて、一対のやうにしたるならん、なほ、倭片仮字反切義解に就ては、他日、別に論ずることあるべし、又世に明了房信範記【文永九年の著】と云ふ者あり、五十音の次第、今と全く同じくして、爾も阿行の「エ」を廴と書き、也行の「イ」を〓と書き、和行の「ウ」を于と書きて、「エ」「イ」「ウ」を分てり、是は近世の偽書なる由にて、取るに足らず、況して、斯く分たんには「ウ」は宇の字の省文なれば、和行の「ウ」を原のままにして、阿行の「ウ」を改むべきを、心附かざりしにや、或は之を助けて、「ウ」は宥の省文なりなども云へど、宥を仮字【真仮名】に用ひたる例なければ、此説は信じ難し、(我が語学指南にも、姑く明了房の記に据りて記しゝかど、今思へば、快くもあらず、)

  因に云ふ、和字正濫鈔に、信範と云ふ僧、涅槃経文字品に善男子有十四音名為字義とあるを、「アイウエヲカサタナハマヤラワ」の十四音なりと云ひし由記せり、韻鑑、古来傅来の旧記に、文永之間、有明了房信範、能達悉曇掛錫於南京極楽院閲此書、而即加和点、自是韻鑑流行本邦也とあり、信範記は、是等の説に裾りて、偽造せる者なるべし、

此五十音の古く見えたるは、我が是まで見し書の中にては、承暦三年に写せる、金光明最勝王経音義に、五十音の濁音を挙げて、婆毘父(夫)倍菩駄(堕)地(時)頭(徒)弟【中欠】我(向)義(疑)具(求)下(夏)吾(五) 坐自(事)受是増とあれど、偽書なるべし。其次には、藤原基俊【保延四年削髪】の悦目鈔に、「ラリルレロ」の五文字も大切なりとて、ら文字を歌の首尾に居ゑ、「リルレロ」も同じやうにして、五音の歌あり、又藤原清輔【知承元年卒】の奥義鈔に、「キ」も「ク」も、五音の宇なれば、同じ事なりと云ひ、其弟の僧顕昭の袖中鈔に、「マ」と「メ」とは同じ五音なる故なりとも、「カケコクキ」の五音【此列ねかた亦異なり】叶へる故にとも云へり、其次は、上に引ける管弦音義の類にて、塵添アイ嚢鈔にも「タチツテト」「ラリルレロ」など云へり。

此五十音の初めは、国語の為にしたる者なるべし、されども、盛に音韻の翻切に用ひしことは、倭片仮字反切義解とある題号にても、又、其書の中に、父字子字など云へるにても、二中歴に、反音五音と云へるにても、天文本倭名類聚鈔に、字切とありて其注に、切与反同、同音取下字、又一行之中、取下切字為正字、軽重清濁依上字、平上去入依下字とあるにても知るべし。そは兎もあれ、角もあれ、五十音と云ふものは、我邦の言語の為には、至極都合の宜しきものなり。

  〔『国文論纂』(國學院、明治三十六年)所収〕



明治二十五年 『大八洲雑誌』『大日本教育会雑誌』に初出、いま『国文論纂』明治三十六年、三四九〜 三五八頁による。また『日本語の起源と歴史を探る』新人物往来社一九九四に再録





画像
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橋本進吉「五十音図」

五十音圖 國語学

【名称】古くは五音図といつた。反音圖・假名反の圖・對馬以呂波(いろは)・五十字文・「いつらのこゑ」ともいふ。

【解説】假名を左の如く五字づつ十行に列ねた圖をいふ。

  ア イ ウ エ オ

  カ キ ク ケ コ

  サ シ ス セ ソ

  タ チ ツ テ ト

  ナ ニ ヌ ネ ノ

  ハ ヒ フ ヘ ホ

  マ ミ ム メ モ

  ヤ ィ ユ エ ヨ

  ラ リ ル レ ロ

  ワ ヰ ウ ヱ ヲ

縦の各行を「行」と云ひ、その最初の假名によつてそれ%\ア行・カ行・サ行などいふ。横の各列を「段」又は「列」と云ひ、その最初のア行の假名によって、それ%\ア段・イ段・ウ段など又はア列・イ列・ウ列などいふ。一々の假名は必ず一定の行の一定の段に位する。行及び段は一行又は一段づつ連ねて呼ぶのが常である。五十音は、古ぐは萬葉假名で書いたものもあるが、早くから片假名で書いたものがあリ、後にはそれが例となつた。それ故、片假名と五十音圖とを混同する事もあつた(片假名参照)。しかし近來は平假名で書く事も多くなつた。又五十音図には、あらゆる發音を異にする假名が含まれ、それが一定の順序に排列せられてゐるために、假名で書いた語を排列する時には五十音の順による事が多い。

【五十音と假名の発音】五十音図は、原則として、一々の假名の示す音節を二つに分解して、初めの子音の部分の同じものを同行に、終リの母音の部分の同じものを同段に置いたものである。それ故、五十の音は、悉く互に違つた音であるべきであるのに、ア行のイどヤ行のイ、ア行のエとヤ行のエ、ア行のウとワ行のウは全く同じ假名であつて、假名としては発音上区別がない。それ故、一方に別の字を置いて(例へばヤ行のイに「〓」を、ア行のエに「〓」又はヤ行のエに「〓」を、ワ行のウに「于」を置いて)音の相違を明かにしようとしたものもある(古く萬葉假名で書いた五十音図にはごれ等を区別したものがある)。この中、ア行のエとヤ行のエとは、古く発音にも假名にも區別があつたが、後に同音となリ假名も一つになつたのである。又、ワ行のヰ・エ・ヲは、今はア行のイ・エ・オと同音であるが、これも古代には発音上区別があり、同音になった後も、假名としては、別々のものと考へられてゐる。又、サ行のシ、タ行のチ・ツは、理論から云へばsi・ti・tuであるべきであるが、今はshi(∫i)、chi(t∫i)tsuとなつて、例に合はないが、古くはチ・ッはtituと発音した(「シ」の古音は、siかshiかまだ明かでない)。かやうに古代の假名の発音によれば、五十音図は、大抵規則正しいものとなり、当時の國語の音をその異同によって組織的に排列した音聲表と見られるが、なほヤ行のイ、ワ行のウの如き、古代國語に無かつた音を加へてゐる。さうして後世、國語の音声変化に伴ふ假名の発音の変化と共に、五十音圖は音聲表としては正しくない部分が生じたが(タ行がtachitsutetoとなリ、ワ行がwaiueoとなったなど)、それにも拘はらず、國語の音相通又は声転換等を示す図としては、そのまゝ用ひる事が出來る。(例へば、「こゑ」――「こわいろ」に於ける「ゑ」と「わ」の転換は、「ゑ」の発音がweからeに変化した後も、やはリワ行の二段とア段との転換である)。

【五十音圖の異同】古代からの文献に五十音圖の全部又は一部が見えてゐるものを集めて見ると、その行及ぴ段の順序に異同あるものが少くない。段の順序に於ては今の五十音図の如くアイウエオの順序であるものの外に、古くイオアエウ、アエオウイ又はアウイオエと次第するものがあり、行の順序は、今の五十音図に普通であるアカサタナハマヤラワの順序と多少の差あるものが非常に多く、今の順序のまゝのものは平安朝にはなく、鎌倉時代にもあまリ多くない。しかし吉野時代頃からは次第に多くなり、室町時代に於ては大概これに一定したやうである。現存最古の五十音圖に属する明覺の「反音作法」及ぴ「梵字形音義」に見えるものは、萬葉假名を用ひ、ア行は阿伊烏衣於、ヤ行は夜以由江與、ワ行は和爲干恵遠とあつて、片假名で区別なき音まで区別してゐる。又、明覺の書にある片假名の五十音圖でも、当時同音になってゐたとおもはるゝイエオとヰヱヲとの位置も正しくなってゐる。然るに平安朝終りから鎌倉時代に入っては、ア行のオとワ行のヲとの位置を誤って、ヲをア行にオをワ行に置いたもの、又は、ア行・ワ行共にヲとしたものが出來、それが次第に普通となり、更に、エとヱ、イとヰの属する行を誤るものさへも出た。然るに江戸時代に入りて、契沖の挙げた五十音圖は、ア行のオとワ行のヲとの位置が入れかはリ、その他は正しくなってゐたが、本居宣長にいたりて、その誤を訂して、古代のまゝの正しい図が行はれるに至った。

【五十音圖に關する最古の文献】現存最古の五十音圖として年代の明かなものは、悉曇學者僧明覺の著なる寛治七年の「反音作法」承徳二年の「梵字形音義」及ぴ康和三年以後の作たる「悉曇要訣」に見えるものである。なほ古いのは、大矢透氏が寛弘よリ萬寿年間迄のものと推定せられた醍醐三宝院所藏古寫本「孔雀経音義」の巻末に七行だけあるものと、承暦三年に出來た「金光明最勝王経音義」に濁音の行を挙げたものとがある。なほ天台座主良源から道命に傳へたと称する「五韻次第」の中にもあるが、この書は早くも平安朝の終リ、多分は鎌倉時代のものと思はれる。

【五十音図成立の由來】 五十音図は國語の音声表のやうに見えるけれども、元來國語のために作られたものでなく、外國語學、殊に漢字音の反切(別項)のために作られたものらしく思はれる。國語には区別なく、漢字音(及ぴ梵語梵字)では区別があるア行のイとヤ行のイ・ア行のウとワ行のウを区別したのも、漢字の音を反切で示した「孔雀経音義」の末尾に最古の五十音圖の一つが見出されるのも、,僧明覺が最も古く五十音図を挙げて假名による反切法を説いてゐるのも(反音作法)、後世までも五十音圖が反切に用ひられて、反音図とも假名反の圖とも名づけられたのも、右の如く考へれば最も自然に解せられる。反切のためには、各行の假名が皆同様の順序に並んでゐる事だけが必要なのであつて、行と行との順序も、行中の假名の順序もどんなでもよいのである。又賓際用ひる場合には、反切の上字と下字とに關係ある二行だけあればよい。古代の五十音図に、行や段の順序がさま%\になつてゐるのも、又古書に二三の行だげ見えて全部揃はないものがあるのも、かやうな理由による。尤、支那語の音声は日本語よリ複雑であつて、日本語に無い音が少くない故、正確な漢字音は假名では寫し盡せない譯であり、梵語も亦同様であるが、支那との交通が盛んであつた時代には、正確な支那語又は梵語の發音が伝はってゐたであらうが、間もなく日本化した事と思はれるから、漢字音も梵字の発音もすべて假名で示し得る事となつたのであらう。その時代に同じ子音ではじまる音を連呼して反切をなす事となつて、五十音図の個々の行が出來、それが纏まつて五十音圖となったのであらう。

【五十音圖と悉曇】同じ子音を有する音を連呼する事は、悉曇に於てあリ、悉曇章の各行は皆同子音ではじまる音節である(悉曇参照)。その順序はa a i i u u e ai am ahであって、日本の假名に無いものを除けばアイゥエオの順となる。又子音は悉曇字母に於けるものの中、日本語に無いものを除けば、カサタナハマヤラワの順序となる。これによれば、現今の五十音圖は悉曇に基づくものであること疑ない。古代の五十音図は、段の順序に於ては、明覺以後アイウエオの順のものが最も多く、悉曇の影響が明かであるが、しかし「孔雀経音義」の末尾や、教長の「古今集註」や、顯昭の「日本紀和歌註」、涼金の「管絃音義」の如き古い時代のものには、これとも違ひ、又相互にも同じくないものがある。これ等は、或は悉曇とは關係なく、漢學者、その他から出たものかも知れない。又行の順序は、悉曇に一致するものは、鎌倉時代以後のものであつて、それ以前には見えないやうである。これはその順序があまリ大切でなかつたためでもあり、又學者が自分の考で、音の性質の類似したものを近くに置いたリしたためでもあるらしい。しかし、途に今日の如き順序にきまるやうになったのは、悉曇の影響であることは疑ない。

【五十音圖の成立年代及ぴ作者】現存文献の示す所では、五十音図は院政時代には既にあリ、平安朝半頃にも多分あつだらうと考ヘられる。その作者については、藤原長親(耕雲明魏)の「倭片假名反切義解」には、吉備眞備を片假名及び五十音図の作者としてゐるが信じ難い。眞備は支那に留學して、常時の支那語に精通してゐたのであるから、漢字音のために作つたとすれば、五十音では、漢字音を写すに不足であり、又國語のために作つたとしても、奈良朝に於ては、國語の音節の種類は少くも六十ぽどあつて(別項「國語」の中「沿革」の條0を見よ)、五十音ではやはリ不足であるからである。又江戸時代の國學者には、既に神代からあつたと考へたものもあつたが(眞淵の「語意考」、篤胤の「古史本辭経」など)、これは一層成立し難い。大矢透氏は、萬葉假名で書いた最古の五十音圖及びその系統のものに於て、ア行のエとヤ行のエとを区別した事、及ぴこれに用ひた文字が、弘仁よリ天暦までの有様に一致し、且つその母音を写した文字が「慈覺大師在唐記」中の悉曇字母の音註に類似した点がある事と、萬葉假名の五十音図を有する「五韻次第」が良源の伝本といはれてゐる事からして、天台の慈覺大師圓仁の流派から出たものであることを主張された(音圖及手習詞歌考)。しかしながら、現存最古の五十音圖が、果して原始的の形を残してゐるものかどうかは疑問であリ、假にさうであるとしても、これはア行・ヤ行・ワ行のあらゆる音をすべて区別してゐるのであるから、ア行のエとヤ行のエとの別ある事のみを標準として時代を論ずるのは、當を得たものとは思はれない。又大矢氏は、五十音図が最初から悉曇と關係あるものとして説を立てたのであるが、その他の系統のものが無かつたとも断定出來ない(前出)。されば大矢氏の論は、まだ根據薄弱であると言はなければならない。今日の處では、五十音圖は平安朝の前半の中に出來たものの様であつて、悉曇學者即ち僧侶が之と深い關係があつた事は否めないが、果してそれが最初の又唯一の作者かどうかは未だ決し難い。

【五十音図と國語研究】 五十音圖は主として反切のために作られたもののやうであつて、後までも反切に用ひられ、韻学に必要なものとせられたが、又國語の音声表とも見られ、國語の音の性質を説明するに便宜であり、殊に仮名のやうな、音節文字を用ひる國語に於て、音節中の単音の変化又は轉換を示すには必要であるところから、國語研究にも利用せられ、語釋語源の説明からはじめて、仮名遣、てにをは、活用の研究にいたるまで、間接直接に影響を與へたのであつて、國語研究には缺く事の出來ないものとして重んぜられた。(別項「國語學」の中「國語研究略史」參照)、

【参考】音図及手習詞歌考 大矢透

○音圖及手習詞歌考を読む 吉澤義則(國語國文の研究)

○五十音考 佐藤誠實(國文論纂)

○五十音圖に就いて 金澤庄三郎(國語の研究)

○五十音圖の歴史 山田孝雄              〔橋本〕



『新潮日本文学大辞典』新潮社( 橋本進吉『国語音韻史』岩波書店にも再録)
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2005年02月06日

伊勢物語

関西大学図書館電子展示室・伊勢物語

覆嵯峨本

延享四年刊本



京都大学附属図書館所蔵 奈良絵本コレクション [伊勢物語]





九州大学附属図書館所蔵 貴重資料画像データベース

細川文庫本

九州大学附属図書館所蔵 貴重資料画像データベース

支子文庫本



奈良女子大学画像原文データベース

朱雀院塗篭本伊勢物語

伊勢物語抄

伊勢物語御抄

真字伊勢物語

旧本伊勢物語

伊勢物語闕疑抄

伊勢物語拾穂抄

勢語臆断

伊勢物語古意

参考伊勢物語

伊勢物語新釈

伊勢物語残考

伊勢物語傍註

添註伊勢物語俚言解

伊勢物語図会

新譯繪入伊勢物語
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