2005年07月11日

増補俚言集覽序(近藤瓶城)

増補俚言集覽序
蓋有雅言之編不可亦無俚言之撰也、論語曰、孔子所雅言詩書執禮皆雅言也、鄭康成云、必正其音然後義全、是言下孔子説詩書時、特執中京畿之音上也、孔子説經時、特執京畿正音、則平居所談、必雜齋魯俚言論語又載孔子之言曰、文莫吾猶人也、文莫二字漢唐宋明諸儒之註、不得其解〓鑿不容也、至明揚升庵引晉欒肇論語駁曰燕齊謂勉強爲文莫【方言云、(中略)】文莫是齊魯俚言也、得升庵此言千古強解、一朝瓦氷矣、然則暗于俚言者、不可以讀經書況於列國異言、東西殊諺紛々之語乎、彼土所以有〓軒使者絶代語釋列國方言之解也、我了阿法師之撰俚言集覧、徒非倣雅言集覧之著而已、蓋受方言其意也、今又益殊音異諺演義俚語者、以燕石之瑕、加藍玉之瑜、固知罪之難免、然於避宋人鼠璞之諺、聊寤多聞、庶幾于有小補云、


明治三十二年季夏   三河近藤瓶城撰

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俚言集覽凡例

   俚言集覽原書凡例
一 俚言郷語自つから善謠あり 此方古人の口より出て移徙流轉するあり 亦西土載籍に原いて里巷の常言となるあり 今聞ま丶に編輯する故に取次これを載す 一々出處を據援せず
一 此集鄙俗を先として雅馴を後とし輓今を主として上古を賓とせり 鄙俗は人々の知るところ輓今は耳目の及ぶ所なれはなり
一 此集總るに五十音を以てす五韻【アイウエオ】を以て五集となす【阿集伊集傴隻衣集於集是也】毎集横列【アカサタナハマヤラワ】を以て次序をなす 毎列一母の言を首母とす【あぎれアに足也きれは切也アは一毋なり】二母已上の言は言第二文字亦横列の韻を以て次序をなす【次母阿韻次母伊韻次母佃韻次母衣韻次毋於韻是也】一言の兩母に渉るもの【有身をアランアリアルアレはアロと五條あれとも五母に各出ぜす有の字にをさむる類なリ】文字の義訓に據て一に收む 餘母は界外に因字を表す
一 字音の撥假字は三内の正に从ふ【喉内ウ舌内(漢音ヌ呉音二).唇内ム是を三内音といふ案字をアヌの條に收め鹽字をアムの條に收むる是也】又別にンノ字を出す俗語中に三内の分辨しがたきものあるが故也【歩をアンヨと云父をアンノウと云類是也】
一 假字遣は凡て契冲師已後揖取氏古言梯に據れり同書に漏れしものは愚考を記して後賢の是正を俟つ
一 方言郷語甲は常に言へとも乙は聞ざることあり人或は己か聞こと無きを以て一郷一人り私言かと疑へるものあり故に前輩の記載に出るものは稗官野乘を厭はず毎に書名を記すいまだしきは見聞に随て記す故に引書考證古今前後の次序に及ばず
一 余江戸に少長せり故に集中江戸の語什が八九にあり楚人好説楚語なり因て他邦の解し難きものあらんことを恐る是を以て間亦解釋を下す然れとも此舉本偶然の作にして不經意の册なり故に率略疏漏言に足らず解釋反て指に背くものあらん易無常占詩無定詁諺亦復是の如し讀者意を以て逆ふべし余が解釋に固することなかれ
一 此集親戚僚友許多く人の口に出るものを采るといへとも聞ところは愚一人の耳のみ 一人の耳聞こと博からず數人の口言こと盡さず不博の耳を以て不盡の言を聞に其繁多かくの如し若四方の言萬郷の語を輯めは五車軸を折るへし豈一人の枚舉する所ならんや然りといへども亦繁きを厭はず毎部窒行を存し同臭の人の音を嗣んことを冀ふ

    増補俚言集覽凡例
一 原著もと俚言諺語を綱羅せしも前凡例に見えしことく仍は後人の増補を求めたり此意に原つきて今また蛇足を添ふ
一 此書もと俚言の爲に聚めしものなり故に諸辞書の軆に同しからす目標の音訓並へ列し國字漢字並べ舉ぐ不體裁といふべし然れとも俚言もとかくの如きを便宜とすべし
一 原著者此書をもて偶然の作不經意に出つと言ふ是もと謙虚の言なり故人此例多し
一 原著者もと悉曇に明らかに佛典に心醉せられしをもて辞書の體五韻横呼を便なり理ありとして皆五韻横列の次第に編纂せらる然れとも我か諸辞書の體に異なり學者引用の際此書のみ體裁の異なるをもて頗る不便を感すべし是れ著者の意に違ふも諸辞書同體に改めさるを得さるなり
一 原著もと同音頭字の下成丈け一種の物は類に隨ひて聚めたれは今引用の際字音次序に就て探る能はす是亦不便なるをもて普通の例に改む 假令は扇に就て云へは字音次序に關せす扇にか丶る種類を皆羅列するをいふ
一 原著は首母次母等の名目を立て皆その下に記戴す故に首母の下に記せしもの又次母の下に再記するあり今さる奇崛なる例を廢して普逋辞書の體に改るをもて同一記事並出するの重複を見る故に其一は除かざるを得す然れとも文章ことに詳略ことなるものは私意をもて除くへきにあらす之を兩存す故に文中いさ丶か重複するものあり 假令はあの部首母の下にあじろあり同部次母の下に同じあじろを詳記する如き是なりこれを普通字書體に改むれはあじろの紀事二條同所に並列すべし斯くの如き類は一の略記せしかたを除かさるを得ず然れども同じ田毎の月を首母次母兩所に記載せしも記事固より同しからされば二條ともに並存するの類なり
一 原著もと字音の撥は三内の正習に隨ふをもて普通の辞書ムの一音に收むる字を分ちて四區別を立つ舌漢音のヌ同呉音のニは多くは脣音のムに通ふなりこれを細別して三つに分つ又ムとンを區別せり然れとも斯くの如き細別は韻學のことに屬す 普通辞書を探るもの丶堪ゆる所にあらず此四區別の字を束ねてムの一音に歸せさるを得す 假令は陣屋陣觸なとの陣をチニの音に收め丹波丹後の丹をタヌの音に歸せし類
一 原著凡例に見ゆることく俚言諺語もと江戸を專ちとせられしも著者の意もとより是れをもて足れりとせしにあらず故に今四方の言に探りて増補すといへども未だ備らさるものは五車もたゞならざればなり
一 増補に小説語を引けるもの多きは我が小説傳記の書京傳馬琴ころより好みて此語を探り傍訓にはその引用せし時都合よきよみをおどこし用ゐしより其語の正解分別しかたし故に小説語に、訓すへき至當の譯を故人の撰より探りて録出す
一 増補に佛典の語を多く出せしも皆本邦古へより用ゐ來りし要語のみを擇み出せり其引據の語備らざるハもとより佛典辞書にあらざれはなり
一 増補中の諸國の方言は大學人類學會に請ひて其輯集にか丶りしものを探る
一 草木及ひ動礦物等の異名をあけしは多くは本草啓蒙及ひ古言録に探る
一 同一の音なり別所に並べ收めざるを得ざるあり假令は同一の一の字なり其熟語のよみかたに由りてイチの部にのみ收めがたしイツの部に入るもあり此類甚た多し自ら熟語を唱へて其熟語の出る音に就て其頭字のある所を索めは自ら明かなるべし
一 目標に漢字を出して邦音を附したるあり邦音を出して漢音を訓みたるもあり是亦一體せずと雖ともこと俚言に屬するをもて改むるに及はす増補も又之に傚ふ

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2005年05月09日

『日本文学辞典』数研出版

泉井久之助・遠藤嘉基・後藤丹治・清水泰・田中重太郎・中島健蔵・中村幸彦・野間光辰・久松潜一・宮嶋弘・吉田精一
新書判 p433
 昭和37.3.1 第1刷発行(昭和42.2.1 第7刷による)


執筆分担として、
 言語学 泉井久之助
 国語学・国語教育 遠藤嘉基・宮嶋弘
とあるが、
 雑 田中重太郎
とある、田中重太郎氏の国語学関係項目執筆も多い(執筆者中、最も若く、唯一の大正生まれである)。
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2005年04月20日

2005年04月18日

松井簡治「冨山房と辞書出版」

 冨山房も創立以来こゝに五十年を経過した。一口に五十年といふか、それは人間一人の一生に相當する年月である。そこには眼まぐるしい社會事情の變轉があり、おぴたゞしい経済界の變動があり、科學の躍進があり、文化の進展があつた。勿論書肆冨山房としてもその社運には時に起伏があり、幾多の災厄にも直面した。然し一難を経る毎に益々猛進し發展して遂に今日の隆盛を見るに至つたことは寔に慶賀の至に堪へない。
 冨山房が常に有益な出版物を世に送ることは既に定評があるが、その中でも最も偉大な功績は辭書類であらう。芳賀博士・下田博士の「日本家庭百科事彙」、吉田博士の「大日本地名群書」、自分と上田博士との「大日本國語辭典」、佛教大學編纂の「佛教大辭彙」、樋ロ慶千代・上田博士共著の「近松語彙」、大槻博士の「大言海」、「国民百科大辭典」等々これである。世人が冨山房を目して出版界の富士山だといふのも溢美の言ではあるまい。
「國語語典」が明治四十四年神保町の火災の際、窓から火が飛込んだにも拘らず偶然にも原稿が窓の直下に置かれてあつたので焼失を免れ、大正十二年の大震火災の折には紙型の大部分が牛込の秀英舎にあつたので又災厄を免れたのは奇蹟であり天佑であるが一方には冨山房の隆々たる社運の賜であつたかも知れぬ。
 「地名辭書」の著者吉田博士と或宴會の席で會談したことがあつたか、其時博士は「僕に地名辭書の訂正を奨める人があるが、僕は元来餘り旅行をした事がない。地名辭書は机の上で編纂した辭書だ。それだから人間業としてはあれ以上には出来ない」といはれた。「人間業としてはあれ以上には出来ない」とは、何と面白い自信の強い言葉であらうかと感服した。それを聞いた時、自分も二十年六千日、一日三十三語を目標としてあの「國語辭典」を編纂したものだ、我々普通の人間ではこれが極度かも知れんと幾分か衿持心も起つた事があつた。吉田博士は旅行はあまりされなかつたか、私の郷里である下総の銚子が大好きで時々行かれた。それで晩年にも此地に遊ばれたが、遂に病に冒されて銚子で逝去されたのである。現に此地の清水臺の高地には記念の碑が建てられてゐる。
 芳賀博土と自分とは少壮の時から特別の交際であり、公私共に相往来する機が多かつたが、博士が渡米の析、自分のためにウエブスターの舊宅を訪ね(其當時既に他人の所有となつてゐた)「君にはよい土産だと思つてわざ%\撮つて来た」といつて其家の寫眞を贈つて呉れた。友情の厚い事は今尚深く感謝して居る。
 「大言海」の大槻博士は、生前私の顔を見ると「君と一夕辭書編纂の苦心談をゆつくりして見たい。この苦心はは書編纂の経験のない者には解らない。君の國語辭典の語句の出典は感服だ。僕は語源を主にしたいと思つて居る」といはれたが、種々の支障で十分に苦心談を交はす機會を得なかつた事は今でも非常に遺憾に思つて居る。
 吉田博士の「地名辭書」も、芳賀博士の「家庭百科事彙」も、大槻博士の「大言海」も、自分等の「國語辭典」も皆同一書肆冨山房から出版された事は何等かの因縁かも知れない。
 此度冨山房の創業五十年祝賀に際し、是等三博士が存命であつたならばと思ふと、喜びの情を禁ずる能はざる一方、無量の感慨に堪へない思があるのである。

matuikanji_huzanbo.pdf
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西田直養『筱舎漫筆』巻三「○類聚名義抄」

是善卿の類聚名義抄は、いにしとし姫路なる神谷氏を訪ひ、かの家にて写本十冊を見たり。奥書に仁治二年辛丑九月六日、釈蕉念、又建長三年八月六日沙弥顕慶とありて、末に観智院とあり。さるをこたびふと一本を得たれば、書舗木村にこのことをいふ。すなはち神谷氏にうつりしも彼店よりとぞ。奥を見しに、仁治建長の年号、神谷氏のごとし。これは嵯峨の法親王、古書をいたく好みたまふより、東寺寺中観智院の蔵書をとりいでさせたまひし時写せしと也。五六本写して江戸にもやり、その残りし本一部すなはち此度の一本なりとぞ。そも/\古語の書あまたあれど、かの新撰字鏡、和名抄の二部を以て第一とす。さるを此名家の抄にいたりては、又この二書の上にたつ。学者の座右におかでかなはぬものなり。〔割註〕字鏡は寛平四年僧昌住。抄は延長以下にいできしもの也。未v考。抄にさきだちて、本草倭名といふ書あり。世に埋れしを、〔割註〕深江輔仁の作。」丹波元簡上梓してよに出たり。さて此名義抄のことを、契冲、真淵、定長の先達のかゝれし書にたえてなきは、其頃はいまだかの観智院の庫中にかくれゐて、よにしる人なければなり。もしかの先達のしられましかば、字鏡、和名抄ともに、神典古籍の註釈に用ひらるべし。かゝる有用の書の、いたづらに櫃の底にうづもれゐたらむは、昭代の闕典とやいはまし。さるをいにし頃、かの法親王の、世にあらはさせ給し御事は、かへす/\もありがたくかたじけなきことなり。是善卿、黄泉より、いかに嬉しとやおもはれむ。かゝる古書をばよく/\校正して上木し、世上に刊布し、後世に伝へまほしきをや。おのれ浅学孤陋なりといへども、略古籍をうかヾふことをば得つ。いかで校正上木の一大挙をおこさむとおもふ。因にいふ。なまものしりの人は、類聚国史の撰書の部にも、文法実録、東官切韻、銀傍輸律集、韻律詩会分類集、家集等のことは出たれども、此書名なしと疑ふべけれど、類史には撰書にもれたることあまたあり。かの古事記、大同類聚方、古語拾遺をさへもらされたり。公然たる勅撰をだにもらされぬれば、此一書もれたりとて、何かはうたがふべき。仁和寺書目はなほさらなり。いまだ通覧もせざれば、よしあし論ずべきならねど、一臠の肉をくらひても、鼎中の味はしるためしなればとて、三四葉を見てかくうけばりて、古書なりといふもをこなるわざなれど、またいはざる事をえず。

随筆大成旧2-2,p69
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2005年03月11日

英和辞書翻刻の流行(明治事物起源 第七学術)

 明治十年代まで、英和辞書の出版の稀なりしは、厚冊の印刷に、大資本を要せしためなり。しかるに、いまや活版術の大発達と、英学熱の隆典とにて、需要の激増を来したれば、その中、いく種かの翻刻出版を見るに至れり。

  大正増補 和訳英辞林  一名さつま辞書明治十八年  京都版

  同同 明治十九年  大坂版

  和英辞林集成 ヘボン辞書明治二十年  大坂版
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明治初期の英和辞書類(明治事物起源 第七学術)2

 以上は明治以前なり。これより明治以後のことを述べん。明治維新後は、英和辞書の出でし数も少なからず、俗称薩摩辞書が、開成所本の模造、蔵田氏版の『浅解英和辞林』が平文本の剽窃に過ぎざるごとき、粗製本もあり。

 (一)『薩摩辞書』 俗称『薩摩辞書』といへる『和訳英辞書』は、薩藩二、三の学生が洋行費を作らんとて、編纂出版せるものにて、その動機は良からざるも廉価に供給して世の英学者に洪益を与へしことは至大なり。その発行始末は『実業百傑伝』高橋新吉の条下に見える事実と、著者が、前田正名氏に、親しく聴ける話とをあはせてここにつくさん。『薩摩辞書』は、明治二年正月の完成にて、その序文に、編輯訳著者は、堀、堀越氏および外国宣教師等、発行者は、たんに日本薩摩学生と署するだけにて、くはしい署名はなし。堀(達之助)、堀越(亀之助)は、開成所辞書の編纂者なれど、その名を出せしものらしく、外国宣教師とあるは、当時長崎に在留せるフエルベツキを指せしなり。幕府を恐れ、秘密に出版せしものなれば、特に詳記を避けしなり。

千八百六十九年新鐫

和訳英辞書

明治二歳己巳正月

 薩藩の洋学校開成所の教師補助に、高橋新吉(後の日本勧業銀行総裁)といふ青年あり。長崎に留学して、何礼之の家塾に学びをりしが、これより先、元治元年に、薩藩より、英国に留学を命ぜられて、あちらにゐる知友より、通信を得るごとに、洋行したき希望堪へがたし。長崎の人にて、蔡慎吾といふ書生あり。高橋は、この人と交情親密なれば、ある日、自費洋行のことを談じけりしが、到底その資金を得るの道なく、決行のむつかしきにつけ、両人フト思ひ付けるは、辞書発行のことなりし。

 これより先、幕府開成所版の『英和対訳袖珍辞書』あり。その編著は稀覯、かつ一部十二、三両の高価なれば、人々これを貴重書として秘蔵し、あへて他人に示さざるほどなりし。蔡氏窃かに思ふに、もしこの書を増刊し、かつ廉価に発売せば、一つは後学を益し、一つは洋行資を得るに易からんと。高橋おほいにこれに賛成し、協力もつてこれを成さんことを誓ひ、さらに、これを宣教師ドクトルフエルベツキに語りしところ、フエ氏もまたおほいにこれを賛成し、十分助力せんことを約束す。だが、洋行や洋書刊行などは、まだ禁制の時代なれば、幕府を憚り、薩藩士中、ことをともにせんとする者もなかりし。で、高橋等だけにて、一意秘密を主とし、毎夜七、八時より、十二時に至るまで、フエ氏の寓に赴きて執筆し、相与にことに従へり。フエ氏は、ただその編纂上に、助力を与へしのみならず、その印刷をも上海の活版所に紹介し、刷成後は、代金引き替へにて、成本の授受手続きを簡易にするなど、その厚情至れりつくせり。されば、高橋等、筆成るの後、フエ氏に対して、若干金を贈りて、その労に報いんとせしが、フエ氏固辞して受け取らざるにぞ、やむを得ず、さらに製本十二部をもつて、これに報いしといふ。学界特記すべき美談なり。

 初め高橋等のこの事業を企つるや、同藩医生前田献吉また来りてその同盟に加はれり。後蔡氏、ことありて同盟を脱したれば、すなはち前田の請を容れ、その弟正名を同盟に加へ、精励刻苦、明治元戊辰年、戦争前にやうやく脱稿せり。

 当時本邦に、活版印刷の業いまだ起こらず、これを印刷するによしなかりし。やがて、フエ氏の紹介を得、これを清国上海なる伝導印刷会社ガンブル商会に注文することとなれり。しかるに、同商会より、印刷費三分の一の、前納を請はれ、ここに再び蹉躓せり。しかるに、幸ひなるかな、前田が、薩藩の巨商浜田十兵衛の奇病を全治せしめて、壱千金を得、高橋これをもたらして上海に密航し、始めてガンブル商会と、印刷の締約が成立せり。高橋は、上海にあること一年、その間王政復古のことあり。つひに藩庁の召喚に接し、一旦帰崎して、警備に任じけるが、再び上海に航して、印刷を督責し、後前田正名これに代はり、明治二年やうやくその三百部を領し、いくばくもなくして、再び三百部の刷本、フエ氏の許に着せり。ときに、献吉は、官軍に従ひて函館にあり、正名また長崎にあらず、ただ高橋一人、代金を調達せざるを得ず、おほいに当惑のあまり、かねて知るところの、日田県知事松方助左衛門(後の正義)を訪ひて、窮状を訴ふ。助左、添書を授けて、長崎の富商松星氏に紹介し、始めて九百金を借りることを得て、やうやく三百部を領有することを得たり。

 以上は『百傑伝』所載の梗概なるが、この同盟者の一人、後の貴族院議員前田正名、かつてこのことにつき、著者に、まのあたり答ふるに、左のことをもつてせり。

 最初、薩藩にて、英船の襲撃を受けてより、おほいに啓発せられ、海外との交通は、到底避くべからざるものと、斎彬公始め要路の人々の思想は、おほいに豹変せり。次いで、松木、森、鮫島等の書生を、英国に留学せしめしが、そのとき、予は、ともに行きたくてたまらず、懇願したれども、その選に入ることあたはずして止めり。

 その後、あの辞書を出版することになり、予は、名を弘安といひしが、予の兄の前田献吉、および後年銀行の方に出た高橋新吉、この三人が上海に往きて、印刷製本を完成することになりしなり。否、藩の金などは、一銭ももらはず、まつたくわが輩等の才覚にて、出版費を間に合はせしなり。上海に往きしは慶応四辰年の春なりしと思ふ。元来、予は、諸先輩の愛顧厚かりしため、従軍させて、空しく死なせるは不憫だとて、東北の戦争には出されないでしまへり。予は、この上海渡航のときほど、困苦したことはない。下宿費は豊かならず、言語は通ぜず、困苦を極めしことは忘れない。いま思ひ出せば、その活版所は、上海の某寺院にて、支那人を使役し、その下の方にて、印刷してをり、最初は、五百部を印刷する予定なりしが、印刷所にて、わつか五百部にては、原価が格外に高くなるゆゑ、少なくも二千部は刷ること好からんと忠告す。この方は、その言に従ひ、二千部印刷を頼むことにせり。この活版所は、長崎の宣教師フエルベツキ氏の紹介なりし。

 さて、製本も成り、これを持ち帰れるが、まつたくこれを売り捌く道を知らず、当惑せり。幸ひに天下の形勢一新し、大久保、大隈諸氏、声望隆々なりければ、内五百部を、政府の買ひ上げを請ひ、官立学校等の備本となすことを得たり。しかうして、予はその金にて、洋行の望を達したり。もちろん洋行費としては、足らざりしも、外務省より、補助を仰ぐことにし、明治九年まで、あちらにをれり。兄献吉と高橋は、あとの千五百部を売りし代金にて行くことになり、予だけさきに行き、二人は後れて往けり。あとの千五百部はたちまち売りつくし、兄と高橋にて、再版せしはずなり。この辞書については、今日まで、質問せる者もなく、また世人の深く知らない事実なれば、くはしく話して置く。とあり。

 著者いふ、同じ薩摩辞書にて『大正増補和訳英辞林』明治四年十月、薩藩前田正穀、高橋良昭、上海米国長老教会印刷所印行とあるものあり、新吉献吉両人の再版本とは、これならん。

 著者は、弘安が、最初の売上金を、自分だけの洋行費にしてしまひ、あとの両人が、困りしことありしやうの話を耳にしてをりたりしが、面と向かひて、これを問ひかね、ぼかしてしまひたりしを、いまに悔やみをる。

『五代友厚伝』二四九頁の一尺牘は、辞書売却に苦心したる当時の、事情を知るべき、よき傍証なり。

御壮栄奉賀候、扨此内より、上海表にて、英和対訳辞書上梓の儀、旧政府免許の上、高橋前田等尽力成就相成候処、段々右事件に付、子細有之、当人共、迷惑の件当来、此節、右対和書五百部持参、諸所へ相払の都合に御座候、兵庫県も、百部丈は取入、兵部省百五十部は取入相成候由、残を是非運上所等へ、少々にても御用相成候はば、別に仕合の由、無余儀訳合に付、可相成は少々にても御用相成候様、土肥氏へ御談御世話被下候儀は、相叶申間敷哉、又は、商法局等へも、少々は無くては不叶品とも奉v存候間、可v成数冊御世話相調候得ぼ、仕合の至、此節の書籍は、余程宜敷、「フルベツキ」氏抔、尽力誠に見易く御座候、一冊拾弐両にて御座候由、右に就ては、段々事情有v之、何卒世話致され度、両人も極々切迫、心痛の事に御座候故、毎度余計の御煩はせ申上候得共、何とか救成度御座候故、当人共差出候に付、次第御聴取被v下、御工夫被v成度、乍2自由1書中を以、此段御願申上候、早々。

    明治三年二月二十日              (小松帯刀)

                                観瀾生

    (五代友厚)松陰先生



(二)『英華字彙』 明治(二年)己巳、初秋官許上木、松荘館翻刻蔵板と、標記する『英華字彙』は、四六判三二二頁、和紙洋装の木版英和字典の一種なり。履軒柳沢信大の序文に、「余曾テ、英漢倭対訳ノ字書ヲ編述セント欲シ、稿ヲ起シテ未ダ成ラズ、子達森川君、夙ク字彙一冊ヲ有ス、英士斯維爾士維廉士ノ所著ナリ、頃、将ニ刊行シテ諸ヲ世ニ会セントシ、余ニ付テ謀ル、余其ノ所見ヲ符スルヲ喜ビ、慫慂賛成シ、敢テ自ラ揣ラズ、之ニ訓話ヲ加へ、且ツ一言ヲ弁シ、以テ其唱道ト為ス云々」とあり、森川子達の発行、柳沢の訓点の事情をつくせり。その凡例によれば、本書は、英人スウエルスウエレンスの著書『英華韻府歴階』中の、『英華字彙』の部だけを取りて、翻刻せしものなり。巻末に、東京柳原香芸堂、川起屋松次郎発兌の印記あり。

 柳沢は、中村敬宇の同人社の友なり。本書によりて、後段掲ぐるところの『英華和訳字典』の訓点発行ある由来を知るを得たり。

日本柳沢信大校正訓点

英華字彙

清衡三畏鑒定

英斯維爾士維廉士著



松荘館翻刻蔵板

官許上木

明治己巳年初秋



 (三)『浅解英和辞林』 四六判、『浅解英和辞林』は、蔵田清右衛門(後年まで、浅草にありし、蔵田活版所の創立者)が、文部省にありし、片仮名活字――和蘭製と聞く――を借り出し、平文の辞書の日本訳のローマ字綴りなるを、仮名に書き改めしものにて、平文氏より、版権侵害の故障を申し込まれしといふやうに聞いてゐると、蔵田の嗣子某氏の話なり。



明治四年辛未初冬

浅解

英和辞林

東京蔵田氏新鐫



明治壬申仲夏刊行

英和字典

西暦千八百七十二年



 (四)知新社『英和字典』 知新社字典は、四六判薄葉紙頁六百九十四頁の洋本仕立てなり。明治五壬中の夏の刊行、吉田賢輔の序文によれば、「吾党の二三子、英人ニユツタル氏の字典を本とし、傍らウエヴストル氏の大字典に就き、務めて応用に適切なる語を訳出し、且つ、翻訳に従事するの人をして、捜字に使ふらしめん[ママ]が為め、英漢対訳の字典をも采用」せしものなり。大槻磐渓の跋文にも「知新社」社中の編纂なるを知る。

 この時代の字典として、別にあやしむに足らざれども、洋装本にて、その序文は、左方とちめを頭にして、右方へ書き下し、本の小口を下方にして読むやうに入れ、跋文は、字典の順にていへば、Zの最終行になるべき行より書き起こし、上方に昇るの異観を見せり。

 (五)有馬学校『英和掌中字典』 三寸に四寸の掌中字典なり。明治六年秋九月、青木輔清の序にて見れば、学生用として、有馬氏の嘱により青木氏の編纂せしものなり。

 従四位有馬頼咸は明治五年某月、現石十分ノ一の家禄を頂戴しても、病弱のために、他の華族諸氏のごとく、洋行して学を修め、国家の進歩を助くることあたはざるを恐懼し、よりて右家禄の半ばを割きて小学校を設け、西洋教師を雇ひて、教育につくし、もつて君恩に報じたしと願ひ出で、許されて創建したるが、日本橋蠣殻町の有馬小学校なり。本字典がこの小学校より出版されたるを奇とし、小冊ながら、ここに留む。

紀元二千五百二十三年九月刊行

英和/掌中字典

     有馬私学校蔵版

 (六)金沢版『英和辞書』

 (七)横浜版『英和字彙』 前者は、石川県金沢藩明治六年出版(渡辺修二郎氏通報)、後者は、同じく明治六年版、図入りなりといふ。ともに、いまだ一見せざれば、ただ書目だけを掲げおく。

 (八)開拓使『英和対訳辞書』 明治五年七月、荒井郁の序文あり、奥付に、壬中晩夏刊成る、小林新兵衛(嵩山房印)あり。開成所枕辞書と同型同大の和版、和紙本にて、頁数もまた似たるものなり。

 (九)日就社『英和字彙』 明治六年一月に、印刷成りし日就社版、『英和字彙』の緒言に、

「庚午始メテ稿ヲ起シ、共ニ対訳ニ勉ム、然レドモ、之ヲ印刷スルニ、許多ノ苦心ヲ為セリ、曾横浜ノ商糸屋平八、此事ヲ聞キ、抵当ノ有無ヲ問ハズ、首トシテ金若干ヲ出シ、以テ吾輩ノ創意ヲ助ク、因テ印刷ノ器械ヲ外国ヨリ購ヒ、訳成ルニ随テ之ヲ印刷シ、遂ニ今春ニ至リテ成功ヲ得タリ」



とあり、『読売新聞』の沿革、『新聞総覧』によれば、「明治三年、子安峻、柴田昌吉等の諸子相謀り、上海より活字及び活版器械等を買ひ、横浜元弁天町に、日就社を設立し、続いて『英和字彙』を刊行せり、本邦に於て、『英和字彙』を印刷したる始めなり、六年一月卒業し、間もなく(東京)芝琴平神社近くに移りて、出版印刷業に従ひ、同時に新聞発行の計画を為し、七年十一月、『読売新聞』第一号を発行せり」とあり。

 (一〇)『和訳英辞書』(サツマ辞書と同名) 明治三年以来、新製活版といふものにて、『薩摩辞書』の翻刊を目論見、その活版が、なかなか完成されず、追々資金をつぎ込み、たうとう寂樵なる者に一切を委任し、大革新をなせるが、明治六年十一月、このとき新古出資総計、壱万四千参百四十円、社長平坂信八郎、職方棟梁天野勇次郎、出資者八、九人、久しくもみに揉めたるが、幸ひに辞書は完成せり。

 東京新製活版所天野芳次郎蔵版、改正増補和訳英辞書序……明治己巳の春、鹿児島学生開版の辞書を、わが発明の鉛字器械にて公世せんことを官に乞ひしに、稟准を得たる旨の語あり。本文七九〇頁、背革仕立て、まつたく薩摩辞書の面貌を移せり。

紀元二千五百三十三年

稟准

和訳英辞書

明治六年十二月

 (一一)『英華和訳字典』 大本二冊、正誤付属一冊(六十七頁の正誤、明治十四年三月出版)、明治十二年二月の刊行なり。中村正直校正、津田仙、柳沢信大、大井鎌吉三人の訳なり。普通の英華字典に、仮名字の和訳を加へしものなれば、和漢英三国字典なり。校正者の跋文に「余此書ヲ校ス、明治五年十二月ニ始マリ、同十二年二月ニ畢リ、蓋シ六タビ裘褐ヲ易ヘテ、終ニ能ク完功ス」の句あり。

 筆者は、中村正直と『英華字典』について、憶ひ起こす一事あり。それは筆者が、往年著作せる『中村正直伝』に、『英華字典』筆写の一節を掲げしことあり。

   先生の家に伝はる所、桐箱入写本辞書十冊あり、その箱は、横長形の桐製にて、側面に、左の三行二十一字の題銘あり、実に先生の自ら書付けたる所にかゝる。

   此余所b費2精神1而写a者。故有2欲v用v之者1。勿3妄散2乱座間1。

   又箱の内面に、明治二己年仏誕日作2此箱1。

と、其箱の由来を記しおかる。先生の手細工だけに、其のさし蓋の溝加減など、をかしき点なきに非ざれども、先生の匠気の、尋常ならざりしを見るに足れり。

 箱内に納むる所は、美濃紙本十冊なり。開きて之を閲するに、鼠色に摺りたる普通原稿用碁盤罫紙へ、十八段づゝ筆写したる漢英辞書にして、開巻より終尾に至る迄、一字も草匆の体無く、謹厳に写し成せるを見る。第一巻の首に、

 乙丑八月廿六日写起、同十一月晦卒業

の十六字あり。乙丑は、当に慶応元年なるべく、先生年三十四歳の時にあり、……其写起卒業の識文より推せば、九十余日の精力を費して、筆写せられしものなるを知る。

 同書の末に貼り付けたる、一紙片あり。実にこの辞書の原本所蔵家なりし、勝安房氏の書牘なり。

拝読、如命残寒一層を増候、益御多祥奉賀候、扨は御用立罷候英辞書、御鈔禄御卒

業に付、御返却被v成落手候、此書、横浜商へ御誂の処云々、如v仰此書は、昨年も参候儀にて候得共、上海辺書店には、偶鬻グものも有v之候哉と申候、既に拙取入候節も、二部持越、一部は他へ譲候、未だ此書上海書店には極て可v有2御座1と奉v存候、春来拝眉之折、万々御請迄、早々頓首。

   十二月念五                      安房守

     敬輔様


   又この写本辞書中に、左の題歌あるものあり。

   ことたまの神の心を心ともなしてふみ見る君にぞありける

       明治十一年初春             安房

 これは、世態一変して、先生の名大に揚りし後、談当年の事に及べることあり、勝氏も十余年前の感に、即詠を題したるものなるべし。先生の此辞書を筆写するや、厳に自ら課程を立て、怠らず、時に、恰も歯痛を患ひたりしが、乃ち、水を含みつ、痛みを忍びて執筆し、之を筆写すること半にして、眼光濛々として痛みあり、常に冷水を座右に置かしめ、眼を洗ひては写し、余り精を込めて筆写したる結果、手首強直して、筆を執ること能はざるに至る。乃ち筆管を手頭に縛り付けさせ、尚書写して成業を急ぎしと、家人の述ぶる所なり。


 当時、辞書類の得がたかりし一斑は、これにて明らかなり。また当時の英学者は、相当に漢学の素養ありたれば、福沢先生が、清人子卿の『華英通語』を和訳して、会話の津梁とせしごとく、漢英辞書は、わが洋学者を益せしこと、少なからず。但し、『英華字典』の、始めて本邦に転入せられし年代は、いまだこれを究めず。

 辞書不足の時代の書生、勉強のありさまはいかなりしや。緒方洪庵の蘭学塾にあつた福沢諭吉『自叙伝』は、安政時代の不自由を叙べていふ。
さて、其写本の物理書医書の会読を、如何するかと云ふに、講釈の出来る人もなければ、読んで聞かしてくれる人もない。内証で、教へることも聞くことも、書生間の恥辱として、万々一も之を犯す者はない、只、自分一人で以て、これを読砕かなければならぬ。読砕くには、文典を土台にして、辞書に頼る外に道は無い。其辞書と云ふ物は、此処にヅーフといふ写本の字引が、塾に一部ある。是は、中々大部のもので、日本の紙で、凡そ三千枚ある。之を一部拵へると云ふことは、中々大きな騒ぎで、容易にできたものではない。是は、昔長崎の出島に在学してた、和蘭のドクトルヅーフといふ人が、ハルマといふ独逸和蘭対訳の原書の字引を翻訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と崇められ、夫れを日本人が伝写して、緒方の塾中にも、たつた一部しかないから、三人も四人も、ヅーフの周囲に寄合て見て居た。

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明治初期の英和辞書類(明治事物起源 第七学術)1

 明治以前、明治の英和辞書を述べるには、少しく明治以前に遡り、その淵源を窮める必要あり。

 (一)『諳厄利亜《アンジリア》興学小筌』 文化五年八月、英艦フエトン号、長崎港外に投錨し、間もなく去り、奉行松平図書頭、撃攘の機を失したるを愧ぢ自刃せることあり。いはゆる英艦狼藉事件なり。このときこの方は、蘭通事をして交渉せしめしに、言語不通のために、機を逸し、ただ和蘭一国の言語にては、外国の交渉に当たるに足らずとなし、同六年春、まつ長崎の蘭通詞をして、魯語英語を兼修せしめることにせり。

 同年秋、渡来の和蘭人加比丹の副官ヘトルヤンコツク・プロムホフが、英語をよくしたれば、その教授に当て、通詞の子弟六、七輩をして、習学せしめ、本木庄左衛門(諱は正栄、別号蘭汀)をその世話役とせり。庄左衛門は、当時年四十三なりしが、少年子弟とともに、刻苦勉学し、同八年春に至り、英語辞典十巻を著はして、幕府に献ぜり。いはゆる『諳厄利亜與学小筌』にて、初巻に文字の発音短語等をあげ、巻ノ四以下、主として会話あるいは作文用短句の対訳をあぐ。

 (二)『諳厄利亜語林大成』 本木正栄が『興学小筌』を著はせる翌文化九年、幕府正栄に命ずるに、英語辞書の編纂をもつてせり。正栄ここにおいて、通詞馬場貞歴、末永祥守、楢林高美、吉雄永保等の補助を求め、プロムホフの指導を受け、研鑽刻苦、文化十一年に至りて、『諳厄利亜語林大成』を成せり。巻を分かつこと十五、語を蒐録すること七千余、実に本邦英語辞書の始めなり。

 (三)『英和対訳袖珍辞書』 欧米諸国と通商条約を結び、ことに横浜を貿易地となしてより、急劇に英語の隆興を来し、それにつれて、もつとも必要を感じたるは、英和対訳書なり。ここにおいて、開成所にて、堀達之助、箕作貞一郎(麟祥)等に命じて、英和辞書の編纂をもつてし、文久二年これを発行せり。本木氏の『語林大成』が、その基礎となりしことはいふまでもなし。題して、『英和対訳袖珍辞書』といふ。本書は、総て九百五十余頁、特別漉きと思はるる肉厚の雁皮紙の両面に印刷し、製本またかがり綴ぢ、背革の堅牢なる洋式仕立てなり。

 当時にありて、九百五十頁の大冊の印刷は容易の業にてなかりしことは推察に難からず、果たして、新旧時代転換の一異観を留めしを観る。すなはち、半頁の英文は、かつて和蘭国王より貢献せしところの金属活字にて組み、その半頁の和訳は、彫刻整版を用ひ、一頁の中に、活版整版相対せり。

 慶応二年再版の同書は、堀越亀之助、柳河春三等の手にて、不規則動詞の表などを増補せり。このたびは、半頁の英文を、新たに組み成すを不利とせしものか、英文の方をも整版となし、用紙製本とも初版の体裁に倣へり。堀越氏は、後徳川亀之助の名を避け、五郎乙と改名し(蘭語ゴロートは大の意なり。そのゴロートに、五郎乙の字を当てしなり。明治五年また愛国と改名せり)、慶応三年の再版(実は三版)は、和本風の袋頁横本、俗にこれを枕辞書といへり。

 (四)平文の『和英語林集成』 以上あげしは、英和辞書なるが、横浜在留の米国人ドクトル・ヘボン氏の力によりて、始めて和英辞書出版さる。題して、『和英語林集成』といふ。和語をローマ字綴りとせるは、一創意なり。この編纂事業に、岸田吟香の手伝ひしことは、あまりに知れ渡りし話なり。平文氏の本書を成す、その印刷を開成所に諮りしに、浩澣のゆゑをもつて、目途立たず。つひに支那上海に渡りてその出版を完了せり。

慶応丁卯新鐫

美国平文先生編次

和英語林集成

一八六七年  日本横浜梓行
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和英辞書の始め(明治事物起源 第七学術)

 横浜在留医士ヘボン、和英辞書の編纂あり。邦人岸田吟香(美作国久米郡塀和村の人にして、天保四年四月八日生まる。幼名太郎、次いで銀次と改め、落魄して左官職に隠るる頃、同僚呼んで銀公銀公といふ。後年陸放翁の詩に「吟到梅花句亦香」の句あるを想起し、みつから名付けて吟香といふ)その家に寓しおほいに編纂に力む。慶応二年七月稿成り、同九月相携へて上海に渡り、美華書院にて印刷せしめたり。三年印刷成り、名付けて『和英語林集成』といふ。

 ヘボン氏、岸田氏の功労を賞し、眼薬製造法を伝へたりしが、すなはち氏をして一躍大成功せしめたる精〓[金奇]水これなり。

  野馬台が欧文ならば蟹が這ひ  浮萍
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和魯通言比考(明治事物起源 第七学術)

『和魯通言比考』は、和露対訳辞書の祖にて、西暦千八百五十七年(安政四年)日本人橘耕斎(国際部に略伝あり)と、魯人ゴシケウヰツチの合著にて、ペテルブルク版なり。菊二倍半、四百二十三頁、毎頁二列二十一行つつ、また一丁おきに、三十三行の横罫を、カラズリせる白紙を挟みおき、後人追補の余地を存す。ゆゑに、実際の紙数は、四百二十三頁の二倍以上に上れり。

 イの部の最初を例示すれば、左記のやうに、まつ和語の、イ、の類をあげ、魯語に対比し、日本仮名にて、その意味を説く。すべて石版印刷なり。





 大槻文彦博士は、その所蔵本書の末に題せる識語中に、


 (本書の著者橘耕斎)其人已ニ奇ナルノミナラズ、安政四年(洋暦千八百五十七年)ノ此著は、和露対訳ノ辞書ノ最第一ノモノナルベシ、全篇石版ナルガ如ク、珍書ナリト云フベシ、今年今月十一日小石川伝通院ニテ、海上随鴎ノ追福会ヲ開キ、随鴎ノ著、活版ノ『ハルマ和解』(文政八年)ヲ初トシテ、家蔵ノ明治前ノ日欧対訳辞書類三十一部ヲ、衆ノ展覧ニ供セシニ、細川氏(潤次郎)此書ヲ出陳セリ、余見テ流涎セシニ、昨日、本郷元町二丁目六十六番地古洋書店野田屋ヨリ、珍本アリトテ此書ノコトヲ報ジ来ル、今朝直ニ行キテ買ヒ得タリ、価十五円ナリ、爰ニ珍蔵ス。

  明治四十五年六月二十五日 大槻文彦記



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(明治事物起源 第七学術)日本辞書の始め

 未完本ながら、明治四年に公刊せる『語彙』は、新式日本辞書と見るべきものなり。大槻先生『言海』の跋文中に、八年二月二日、本省報告課に転勤し、ここに始めて日本辞書編纂の命あり、……これより先に、編輯寮にて、語彙を編輯せしめられしに、碩学七、八人して、二、三年の問に、わづかにアイウエの部を成せりき。横山由清君も、その一人なりしが、再挙ありと聞かれて、意見を述べられけるは、語彙の編輯、議論にのみ日を過ぐして、成功なし。多人数ならむよりは、大槻一人にまかせられたらむには、かへつて全功を見ることあらむと、いはれたりとなり。また明治十一年には、物集高見編纂の『日本小辞彙』あり、説明は粗略ながら、体裁は、やはり当時としての新式のものなり。

 近藤真琴の著述にかかる『ことばのその』は、小本和装六冊ものなり。その緒言によれば、明治十六年三月より編纂に着手し、十七年秋より摺本にせり。
ことばのその一ノ巻アの部

あのむどよりいつるこゑ、かさたなはまやらわの、こゝのつのこゑは、なかくひけばみなあとなる。またいうえおのこゑのはじめなり。

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哲学字彙(明治事物起源 第七学術)

 井上哲次郎・有賀長雄等、同窓人の著『哲学字彙』は、明治十四年四月の緒言あり。

「此ノ書、英人フレミング氏哲学字典ニ拠テ、稿ヲ起ス、然リ、該書ハ、多ク近世ノ辞ヲ載セズ、因テ、文学士和田垣謙三、国府寺新作、并ニ有賀長雄等ト、遍ク諸書ヲ捜索シ、増加スル所甚多シ」。

 また字義は往々学科に従ひて異なるとて、その略符の学科をあげし中に、倫理学・心理学・論法・世態学・生物学・数学・物理学・理財学・宗教・法理学・政理学あり。論法・世態学・理財学は、今日の論理学・社会学・経済学に当たる。
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2005年02月26日

題倭名鈔(元和古活字本)

 題倭名鈔

從五位上能登守源朝臣順者其先出自

弘仁帝帝生定賜源姓號之楊院大納言

定生至仕擢從四位下左京大夫所謂天

下之好色者也至生攀々生順々爲人博

聞強記識字屬文賦詩又詠倭歌比壯擧

名進士直弉學院邑上帝天暦五年詔順

及大中臣能宣清原元輔紀時文坂上望

城於昭陽舍撰後撰和歌集二十卷時人

謂之梨壷五人順爲之最侍中亞將謙徳

公爲撰和薮所別當順爲之文其略曰雄

劍在腰拔則秋霜三尺雌黄自口吟又寒

玉一聲世以爲美談是年冬十月順依藏

人少内記大江澄景奉宣而作禁制撰和

歌所〓入文先是萬葉集傳于世久矣然

自沙門勤操空海造以呂波字而后人皆

赴簡便而不讀萬葉萬葉書體殆漸廢弛

順懼其古風之委地而以國諺爲之訓點

至今學和歌者大率頼之順之功居多八

年春之月順編橘在列集七卷在死者爲

延長承平之詩人後薙髮于天臺山改名

尊敬者也順平曰好誦在列詩故及此焉

康保年中補總州員外郎又除戸部郎中

圓融院天延四年正月謂依和泉國功補

淡路守不許天元三年正月請依和泉所

濟功勞次第任伊賀伊勢守不許順嘗在

上野守大王亭賦詩其序有云有好學而

無益者前泉州刺史順也一生貧而樂道

徒繼原憲之前蹤九年沈於散班空添〓

舍之左鬢盖述其懷也順同時有善吏童

王才子源澄源文藤勤橘正通慶保胤之

輩皆以文而會者也順又與貞上人淨闍

梨爲方外之交或時入棲霞寺應李部王

之教或時遊白河院添藤武衞之興賦紫

藤於嵯峨院詠紅葉於源氏宅平生詩文

甚繁其後順任能登國守將行時赴右監

門藤將軍亭慶保胤在坐餞順勸醉惜別

曰雖三百盃莫強辭邊土是不醉郷此一

兩句可重詠北陸豈亦詩國順又著倭名

類聚鈔語在其自序中倭名有詳略二本

今所新刊者是爲詳本那波道圓來告刻

梓事且問順世系余於是記事其迹之少

概以贈之吁古稱楊子雲識字然九原不

可作也源順者吾邦千歳之子雲乎熟知

倭名者旦暮遇之

 元和三年丁巳冬十一月 日 羅浮

 散人洗筆於雲母谿清處



新刻倭名類聚鈔凡例

一是書篇帙有多少少者世多傳焉多

 者纔存一部而已但恐其久而亡故

 命工新刻焉

一舊本騰寫之脱誤重複行無高低字

 無細大憂其混淆而難見故考諸書

 而訂正者不少矣且其第十之卷末

 九葉脱失者乃以別本而補之

一訛謬猶遺者今欲正焉然以

 本朝古書之不多傳而無可以爲之

 證故疑以傳疑不敢容易改焉

一部類之數與其自序異者郡類與郷

 類相矛楯者皆姑依舊矣蓋存古也

一校書如風葉塵埃隨掃隨有古猶然

 况今傳寫之多誤活字之牴牾不遑

 悉考者乎見者自擇可也

  番陽那波道圓識



倭名類聚抄序

竊以延長第四公主柔徳早樹淑姿如花

呑湖陽於胸陂篭山陰於氣岸年纔七歳

初謁先帝先帝以其姿貌言笑毎事都雅

特鍾愛焉即賜御府筝手教授其譜公主

天然聰高學不再問一二年間能究妙曲

十三絃上更秦新聲自醍醐山陵雲愁水

咽永辭魏闕之月不拂奏筝之塵時々慰

幽閑者書晝之戯而巳於是因點成蝿之

妙殆上屏風以筆廻鸞之能亦功垂露漸

辨八軆之字豫訪万物之名其教曰我聞

思拾芥者好探義實期折桂者競採文華

至于和名弃而不屑是故雖一百帙文舘

詞林三十卷白氏事類而徒備風月之興

難决世俗之疑適可决其疑者辨色立成

楊氏漢語抄大醫博士深根輔仁奉

勅撰集新鈔和名本草山州員外剌史田

公望日本紀私記等也然猶養老所傳楊

説纔十部延喜所撰藥種只一端田氏私

記一部三巻古語多載和名希存辨色立

成十有八章與楊家説名異實同編録之

間頗有長短其餘漢語抄不知何人撰世

謂之甲書或呼爲業書甲則開口〓揚之

名業是服膺誦習之義俗説兩端未詳其

一矣又其所撰録音義不見浮僞相交海

蛸爲〓河魚爲〓祭樹爲榊澡器爲楾等

是也汝集彼數家之善説令我臨文無所

疑焉僕之先人幸忝公主之外戚故僕得

見其草隸之神妙僕之老母亦陪公主之

下風故僕得蒙其松容之教命固辭不許

遂用修撰或漢語抄之文或流俗人之説

先舉本文正説各附出於其注若本文未

詳則直舉辨色立成楊氏漢語抄日本紀

私記或舉類聚國史万葉集三代式等所

用之假字水獸有葦鹿之名山鳥有稻負

之號野草之中女郎花海苔之屬於期菜

等是也至如於期菜者所謂六書法其五

曰假借本無其字依聲託事者乎内典梵

語亦復如是非無所據故以取之或復有

以其音用于俗者雖非和名既是要用石

名之磁石礬石香名之沈香淺香法師具

之香爐錫杖畫師具之燕脂胡粉等是也

或復有俗人知其訛謬不能改易者〓訛

爲鮭榲讀如杉鍛冶之音誤渉鍜治蝙〓

之名僞用〓〓等是也若此之類注加今

案聊明故老之説略述閭巷之談〓而謂

之欲近於俗便於事臨忽忘如指掌不欲

異名別號義深旨廣有煩于披覽焉上舉

天地中次人物下至草木勒成十卷々中

分部々中分門四十部二百六十八門名

曰和名類聚抄古人有言街談巷説猶有

可採僕雖誠淺學而所注緝皆出自前經

舊史倭漢之書但刊謬補闕非才分所及

内慙公主之照覽外愧賢智之盧胡耳
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2005年02月06日

節用集

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2017年10月20日

箋註和名類聚抄 校例提要

箋註和名類聚抄巻第一

校例提要

謹按上古淳朴、未v有2文籍1自2漢字始入1,借以紀v事、

而譯語之書漸興、如2楊氏漢語抄、辨色立成,日本

紀私記、本草和名諸編1是也,」然以2猶未1v能2詳備1,曁2

延長公主1、更令3能州源君、輯2録此書1,」上自2天地1、下

至2草木1,極v源窮v流、集成殆盡,非3当時獨據以知2漢

字1、教3後世亦就v之證2古言1,且其所2引用1典籍皆随

唐所v傳旧〓、故其逸者可〓以見2約略1,其存者可3

還以訂2譌謬1,豈可v不2益寶重1乎、」余少壮服2習是書1,

有v志2鉛槧1,但恨傳冩多誤,甚至2文義不1v通、爰捜2索

古本1,獲2若干本1、乃忘2已〓陋1,互證校勘、撰2其善者1

從v之、渉2兩佳1者夾2注其下1,又雖2顯然誤字1,二本以

上同者、存以辨v之、」是書従來有2兩種1,一則十卷本、

一則二十卷本、其二十巻本、多2於十卷本1者,時令,

樂曲,湯薬,官職、國郡、殿舍凡六部,時令一部,訓注

全缺、樂曲湯薬、倭名所v無,至2官職國郡殿舍諸名、

自是皇國制度、雖v載2訓語1,〓(不可)云2倭名1,皆書中所v不2

應1v有,且本書倭名,字音開合,用法洵爲2巌整1、而官

職國郡、時有2出格1,又釋顯昭、仙覺、ト部兼永,源善

成公等書,毎引2證是書1,至2是六部1,無2一及1v之,則決

知3二十卷本之非2源君舊本1,故今據2十卷本1爲v定、

然類聚名義抄、伊呂波字類抄,間有b似v據2二十巻

本1者a,又本朝書目兩本並載、則二十巻本、亦非b近

時之所2贅附1者a,為3其今人所2慣見1,故援引參校、如2

被誤謬1,亦一々辨駁、冀不v貽v疑,」凡源君所2引用1書、

現存者取而訂v之・今本非v是者、亦復臚列示v異、逸

亡者據2諸類書1校v之,」間有2所v引書其説誤、而源君

仍襲v之者1,或源君誤引者、或其説謬戻者、今之所

v校,専在c正2傳冩之誤1,復b源君之舊a、則是等諸件、宣2

舍而不1v論,然恐3初學之輩,或受2其謬1,今毎條箋釋

疏2通證明之1,圏子以下所v記是也,」又倭名意義可

v知者,著2前人所1v解、其不2甚安1者,為2更改1v之、於2不v詳

者1丘蓋如也,然古語多不v可v釋者1,如2其漏謬1,以俟2

敏求君子1,

文政十年五月端五日湯島狩谷望之







参訂諸本目録

京本 〓紳某公所v蔵、今所v拠本即此、而譌説亦所v不v免、今従2諸本是者1改正、



又一本 相傳舊爲2難波宗建卿蔵本1、釘為2三冊1、今分在2二家1、其上一冊、爲2錦所山田翁蔵本1、中下二冊、爲2御醫福井崇蘭君蔵本1、今云2山田本福井本1以別v之、



尾張本 尾張國大須寶生院所v蔵、纔存2第一第二両巻1、而間又有脱逸1寛政十三年、名護屋稲葉通邦摸刻伝于世、



伊勢本 伊勢國山田中西信慶遺本、子孫今仍伝保之、第一第二第九第十、四巻缺、第八巻尾題云、自公意僧正御房伝領、三井沙門任契、按公意者、道意僧正之弟子、道意者良瑜僧正之弟子、見諸宗脈紀、良瑜道意二伝、載在本朝高僧伝、唯任契無v攷、検諸嗣宗脈紀、公意之弟子有尊契、則任契或其法兄弟也、稲葉通邦以中西氏所v蔵二十巻本之第二巻、爲是本之第二巻者誤、



昌平本 江戸昌平坂学問所蔵本、第七至第十、四巻缺、巻首有天師明經儒清原経賢船橋家蔵印記按経賢、秀和真人二男、元名宣相、改2栄相1後改経賢、正五位下式部少輔、寛文十二年出家、法名常覧、時年三十二、卒年未v詳、



曲直瀬本 江戸官醫曲直瀬氏壊仙閣所v蔵、第五至第十、六巻缺、是本間有2後人改竄1



下総本 下総国香取郡鏑木村人平山満晴蔵本、毎巻題云、天文丙午天、其第一第二巻末云、誂全宗書v之、第三云、誂和冲東清書v之、第四云、誂奔俊書v之、第五云、誂伊舜上人書v之、又毎巻題云、寛保癸亥五月、於平安書肆得v之総陽沙門快賢伴題、皆不詳其人是木雖編次依舊然合併為五巻刪去毎巻子既失古本之體式且毎用,他書以改本書於諸本中為最下今擇其可據者校之



以上十巻本
posted by 国語学者 at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 辞典類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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