2005年10月25日

『梅暦』当時廓中の通言

『春色梅美婦禰』五篇巻十三 岩波文庫『梅暦』下 p405
作者|曰《いわく》、當時|廓中《くわくちう》の通言《ことばつかひ》を聞くに、古代の廓言葉《さとことば》と違ひ、多くは素人《しろうと》の娘のごとし。今|此糸《このいと》も是に倣《なら》へど、作者も深くは穿得《うがちえ》ず、只通客の批評を俟《まつ》のみ。這《こ》は言はでもの事ながら、往古《むかし》の事跡を今樣ぶりに、写しなすなる策子《さうし》にあなれば、專《もつばら》流行におくれまじと、此樣《こん》な事をも言ふンざますヨ。

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2005年10月21日

明治の地方での東京語

嵯峨の屋御室「野末の菊」(明治22年)、
元來此少女の語《ことば》は田舍語《ゐなかことば》が其|性質《もちまへ》です、然し東京を慕ッて居る心は其|語《ことば》をも慕ひます、ですから東京の人に對すると自然東京語で話さうとします。但《たゞ》しお糸の心の中《うち》で東京語の雛形《ひながた》となるものは教師|某《なにがし》の語《ことば》です、其故此少女の語《ことば》は田舍娘と自然に違《たが》ッて餘り聞よくハありません、(『明治文学全集17二葉亭四迷・嵯峨の屋おむろ集』p282)


森鴎外『青年』
太宰治『津軽』
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2005年03月23日

『明治事物起原』金融商業部「保険の始め」

 (一)保険の語原 保険は明治後の新名にて、最初は、「災難請合」あるいは「危難請負」などといへり。慶応二年版『事情』次篇の坤に、「災難請合の事イニシアランス、生涯請合、火災請合、海上請合、災難請合とは、商人の組合ありて、平常無事の時に、人より割合の金をとり、万一其人に災難あれば、組合より大金を出して、其損亡を救ふ仕法なり」と、海上の例に、ロイドを引けり。

 また同書外編の二に、「相対扶助の法〈フレンド・ソサイチ〉〈ベネヒト・ソサイチ〉、人々の随意に会社を結び、平生より積金を備へおきて、其社中に病人又は不幸に逢ふ者ある時は、積金を以て之を扶助する法なり」といへり。別項海上受負の名も、あるいは『事情』の訳字を用ひたるならん。

 明治四年五月造幣規則に、金銀地金を納め、造幣を望む者の運賃ならびに危難請負の規定を出せり。

 また五年春、東京に大火ありしとき、井上馨建言の内に、「防火兵は勿論、貸家会社、又者火災請負等の方法未だ不2相立1」とあり。しかるに同年五月の『毎周十号附録』英米葛藤記中に、始めて保険賃の沸騰、保険の増賃等、保険の二字見え、六年二月の『日要』六十一号にも、イギリス保険会社中の損耗莫大なりなど見ゆ。

 新訳字 明治二年刊『開智』の記事は、よく保険業の要領をつくせども、ただ旧会社と記せるだけにて、いまだ保険とはいはず。いはく、「英国に一会社あり、此社中に入るものは、仮令へば家興三千ポンドある時は年毎に其高百ポンド半より二ポンドを出しおく事なり、然る時は、万一失火或は盗賊の災厄に罹るとも、家代及び諸具に至る迄、洩さず償ふべき金を、会社より出す事なり、又当主存生中、相談の上、年々若干ポンド宛を会社へ出しおく時は、当主死亡の後も、其家族は、此社中より悉く養育する事なり」。

 同書はまた、在庫品の受け合ひ、汽車旅行中の受け合ひを説き、同年刊『新塾月刊』第二号は、「海上請合証書の訳」を説き、三年刊『聞見録』|保認会社《ウケアヒナカマ》の題下に、家宅保認会社、洋船保認会社を説き、同八月刊『交易心得草』に、諸請負の法一章あり、各種の保険事業の外貌内容は、明治初年すでに各種の著書によつて明らかにされをりしを知る。

 明治の新語なるこの保険の二字は、最初いかに翻訳せしやを見るに、

  開成所編慶応版『英和対訳袖珍辞書』に、Insurance「請合ヒ慥ニスルコト」。

  英人スウエルス・ウエレンス著柳沢信太訓点、明治二年版『英華字彙』に、Insurance Companies「担保会」。

  『新塾月誌』明治二年四月版インシユレンス保険あるいは担保と訳す。

  英人ニユツタル編、吉田賢助等訳、明治五年版『英和字典』に、「請合ヒ、慥ニスルコト、買保険之事、保信」。
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『明治事物起原』金融商業部「会社の語原」

 会も社も、文字の本義は、一字にて衆人集団の意義なるべけれども、今日にては、それを二字重ねて法律的にも動かすべからざる新語となれり。されば、最初は種々の意義に用ひ、役所、仲間、組合、協会、または会の義に混用せるが、以下少しくその用例をあげん。

 西洋の商事会社組織を、まづわが国に紹介したるは、慶応二年版『事情』あり、いはく(実は社債なるべし)、「西洋の風俗にて、大商売を為すに、一商人の力に及ばざれば、五人或は十人仲間を結て其事を共にす。之を商人会社と名つく。アクシヨンと云へる手形を売て金を集む。(利益の配当世間相対にて手形の売買、手形の価の高下等を略説せり)百万両入用なれば、手形百万枚を作り、一枚の価を一両と定め、自国他国の人に拘らず、此手形を買ふ者には、商社より年々四五分の利息を払ふ」といへり。

 次いで明治二年、政府通商司の下に、通商会社、為替会社の二社成れり。前者は内外の商業を経営するを目的とし、後者は通商会社の経営のために、金融の援助を与へ、その他一般に金融の疏通を謀らしめんとせしものなりき。されども、後年の株式または合資の会社とは同じからず。

 嘉永頃刊『万国輿地図説補』に、「勧農会社あり、専ら耕作の事を勉励す」とありて、会社にヤクシヨのふり仮名あり。また弱小国の合縦会盟の項に、「永遠相連合して力を戮すべし、此会社之をドイツフルボンドと名つく、此会社の|夥伴《なかま》は……」とあり、聯盟の意

に用ひたり。

 慶応四年四月刊行の『内外新報』の発行所を「海軍会社」といひ、同五月刊行の『東西新聞』第一号記事に「会社」の二字は、ことごとくなかまのふり仮名あり。

 また明治二年刊行『開智』第六に、「仏国の気灯は、富商等〈社中〉を結び、……又和蘭国気灯は、何れも商人の〈会社〉にて取建云々」、また同書五に、「英国々制、諸学校・病院・幼院及び養老院共、政府の建築せし者は更になく、皆商人等、会社を設けて取建てたる処にて云々」。

 また同年刊栗本鋤雲の『暁窗追録』に、博覧会を博覧会社といふの類、実にまちまちなり。しかし、明治二年、政府の保護の下に設立せし「通商会社」「為替会社」等は、今日同様、商事会社の意味なり。

 明治二年公議所『議案』第六号および明治六年七月発布『訴答文例』の第十四条に、商社とあるは、今日の会社をいへるなり。その方が、むしろ適当の名なりしが、いつか会社になりてしまへり。
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『明治事物起原』金融商業部「銀行の名」

 武藤長蔵氏の詮鑿によれば、支那広東に康熙五十三年(本朝正徳四年)の記識ある銀行会館の鐘銘存在すといへば、支那には、銭荘金銀舗などと同類の営業に、銀行の名称ありしことは、やや古きことなり。

 明治四年十二月、東京会議所会員が、七百万円を資本とし、東京銀行を設立し、紙幣発行権を得んことを出願したれども政府はこれを許可せざりし。当時の東京会議所は、江戸時代の町会所の後身にて、現今の商工会議所に似たる機能を有せる団体なり。当時すでに、銀行の名称ありしを知る。

 本邦今日通用するところの銀行の名は、むろん洋語バンクの翻訳なり。されども、バンクの営業種目およびその性質は、本邦古来の営業名目に恰当するものなく、銀行の訳さへ、適切妥当ならざるはもちろんなり。

 慶応二年版『事情』に、バンクを訳して「両替問屋」といひ「両替屋」といひ、「銀座」といひ、セイヴヰングスバンクを「積金預所」といへり。また二年版『聞見録』に、「党銀舗」と訳し、リヨウガヘバの傍訓を下せり。

 バンクの訳字に、銀行を当てたるは、明治四年中、渋沢栄一が、米国の銀行条例を翻訳するとき、支那にて何々洋行といふより思ひ付きしに始まるとは世上一般の通説となりをれり。されども、この説は、容易に信じがたし。明治四年大蔵省官版福地源一郎訳『会社弁』は渋沢栄一の序を冠して発行せり。その小引中に、「会社とは、総て百般の商工会同結社せし者の通称にて、常例英語〈コンペニー〉〈コルポレーシヨン〉の適訳に用ひ来り、特に銀行に限るの義に非ずといへども、今此書暫く<バンク〉の訳字として銀行の字に代用す」と、「バンク」を銀行と訳し、本文すべてこれに従へり。同年官版渋沢氏の『立会略則』は、「バンク」を為替会社と記し、通篇銀行の新字を用ひざるを見れば、渋沢氏を「銀行」の命名者とすることいかがやと思はる。

『智環啓蒙』(元治元年香港印刷、慶応二年江戸翻刻)百四十九条に、Banknotesを銀行銭票と訳せり。わが明治の銀行の新名は、むろんこの辺より出でしなるべきも、邦人のこれを使用し始めしはいつなるべきかいまだ考へ窮めず。

 明治五年春『雑誌』三十六号に、府下の大火災に、横浜東洋銀行ロツセルが、墨金《メキシコドル》千弗を義捐せる記事あり。その他、銀行にカハセザと傍訓し、銀行会社にカハセコンパニヒと傍訓せる、いつれも銀行の二字の目新しかりしを知るに足れり。

 慶応二年版『事情』に、「銀座手形」を説明せり。「銀座手形」は、今日の「兌換券」に命じたる名なり。いはく、「西洋諸国大抵皆紙幣を用ゆ、但し其価五十両或は百両以上なるものは、之を銀座手形と名け、紙幣と唱ふるものは、僅一二両許にして、市中日常の売買に用ゆるもの也、仏英蘭等には、紙幣なくして唯銀座手形のみを用ゆ、総て紙幣及手形は、政府の銀座より出す、此銀座には、固より紙幣手形だけの現金を備置くべき理なれども……商人にても、銀座を設けて、手形を出すを免す」と、これ当時本邦に行はれたる銀座をもつて、バンクの訳に当てしなり。


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2005年03月22日

『明治事物起原』地理部「日本アルプスの命名者」

 日本本州の大脊梁をなす信州の高山彙を、今日日本アルプスと総称す。この日本アルプスの名は、同名の書を著はせしウエストンの命けしものとされあれども、その実はしからず。真の命け親は明治の初年大阪造幣局の御雇ひウヰリアム・ガーランドにして、ガ氏この名称をウエ氏に薦めしなりといふ。ガ氏は、当時日本に来れるミルンといへる地震学者のために、今日いはゆるアルプス諸山を踏破し、一切の学術的材料を蒐集し、かつ命名者たる栄誉をもウエストン氏に譲り、自分はまつたく隠れたる山岳研究家として終はれる篤志家なり。

 (一)ウオルター・ウエストン ウオルター・ウエストンといへば、すぐに『日本アルプス』の書名を連想するほどに、本邦人に親しまれし英人なり。彼はケンブリツチ大学卒業後、明治二十二年、セント・アンドレス教会の神戸領事館付牧師として本朝に渡来せるをはじめ、前後三回、十三年にわたりて本邦に駐在し、その間二十四年より今日のいはゆる日本アルプスの探検旅行を試み、連続的に登山してその秘境を日本人に展示し、登山と山岳研究のために山岳会なる団体の結成を教示し、鳳凰山、地蔵仏の岩礁登攀を行ひて登山の新様式を実行し、欧洲の登山技術をわが国に輸入紹介せる功は偉なりといふべきなり。昭和十二年に勲四等瑞宝章を授けられ、日本山岳会は、彼の浮き彫り像を上高地の花崗岩にはめ込みて、その功を伝ふ。晩年故国にその老を養ひ昭和十五年二月二十八日歿す。年七十九歳。

 (二)ウヰリアム・ガーランド 昭和四年六月二十一日の『東朝』に、日本アルプス最初の命名者は、英人ウヰリアム・ガーランド氏に確定せるよしを報ぜり。その由来は同年一月、代議士畔田明が乗鞍岳にて遭難し、半死半生の体にて、飛騨国大野郡丹生川村沢上にたどり着きしとき、偶然同村に保存されし山の記録の中に、ウヰリアム・ガーランドなる名を発見し、さらに探究の歩を進めたる結果、一九二二年六月ロンドン発行『化学工業協会雑誌』誌上にガーランド氏が日本山岳の最初の登山者と記載されをるを発見、ここにガーランドが登場せるなりき。

 かくて、畔田氏は右の資料を日本アルプスの権威者小島烏水、槙有恒両氏に提供せる結果、ウエ氏が初めて日本アルプス登山は二十四年にして、ガ氏は五年来朝、二十一年には帰国せるもの、日本アルプスの学術的材料を蒐集し、この命名者たる栄誉をもウエ氏に譲りたること判明せり。

 ウヰリアム・ガーランドは英国シユフイールド市鉱山学校出身の鉱山技師にて、明治五年来朝、大阪造幣局に勤務し、日本貨幣最初の鋳造家として努力し、また皇室を崇敬することも厚く、後、功労によりて、勲三等旭日章を拝受し、明治二十一年頃帰英、物故せる人にて、鉱脈探査のため、信州の大桶銀山、飛騨の平金銅山等を発掘し、この頃はじめて乗鞍山その他の山々に登りて、「ジヤパニーズ・アルプス」の新称を付し、これを宣教師ウオルター・ウエストン氏に伝へ、ウエストン氏は、明治二十九年ロンドンにて『ジヤパニーズ・アルプス』の著書を公にし、続いて小島烏水氏の名著『日本アルプス』によりて、その新称が世界に普及せり。

 研堂いはく、ガーランド氏は、明治五年来朝の造幣技師のよしなれども、同年十一月刊行『造幣寮首長年報』造幣寮に属する欧洲職員人名表中にはその名見えず。





【補】

『60年代ことばのくずかご』p99では、「ウィリアム・ゴーランド」と表記。
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『明治事物起原』地理部「北海道地名の命名」

 松浦弘、名は武四郎(一に多気志楼の号あり)、和歌山藩の人にて、蝦夷地(いまの北海道)探検の功、偉大なり。その土人を案内者として、全道の山河を跋渉し、地図を製し地誌を編める労苦は、思ひやらる。されば、明治に入りて、おほいにその功を認められ、松平春岳の推挙にて、開拓使判官となり、北海道十二ケ国(樺太を含む)の国割郡別をなし、道名、国名、郡名を撰定せり。その地名撰定案、北見国の条下には、
西テシホ境エキコマナイより、以奥ネモロ境シレトコ迄、海岸二十三里、併リイシリ、レブンシリ二島、一局に仕度奉v存候、此辺、ソウヤ、モンベツ、シヤリ等、如何にも国号に仕候に不都合に御座候間、常に、此辺の事、北海岸と唱来候事故、北の文字相用、カラフト島、快晴の日には見え候に付、北見等如何に御座候哉と奉v存候、
など、意見を開陳せるを見る。

 北海道の地名に、漢字を当てはめしは、大抵松浦氏の案なり。もともとアイヌ語に、漢字を当てはめしことなれば、やむを得ざりし事情は同情すべきも、今日、奇怪極まる鉄道停車場名等を見るごとに、も少し別案もありしなるべしと思はるるもの沢山あり。

 三年三月二十九日、「積年北海道の地理物産を講究し、其著書、本道開拓に裨益ある」を賞され、終身十五人扶持を賜ひ、東京府士族に列せらる。

 明治二十一年二月十日、東京に歿す、年七十一。松浦の雑著草稿等、葛籠に一杯、南葵文庫に預かりありしを見しことあり。もと紀州人なりし因なるべし。
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『明治事物起原』暦日部「ゾンダフ」

 (二)ゾンダフ 文久三?年版『横浜奇談』に、「彼の国には、ゾンダフといふ事あり。此ゾンといふは、洋語の天なり、ダフとは、幾日/\といふ日の事なり。我国の七曜の中、日曜日なり、八日め/\に当る」、「ゾンダフには、参詣と覚しく、異人等集りて、我国の説法法談やらの事を聴聞いたすと也、又ゾンダフの休日に、異人男女集合遊行して、音曲を催し、或は鉄砲を揃へて、足並を調練なす」。これ、横浜なる在留外人の日曜日風景なり。

 元治元年、横浜沖軍艦内に雇はれし者の日記に、「毎月三度ドンタク、是は横浜言葉也、英語ソンデエ八日め也」とあり、八日めといひ、毎月三度といふ、正しくはなけれども、当時の記録のままを出す。

 現今府下の婦人小児は、土曜日を半ドンといふ。これ、日曜休日をドンタクといひ、土櫨曜日は半日休なればなり。そもそもドンタクとは、もと、和蘭語のZun Dag(日曜日または休日の義)より出でし語と聞けば、休日をドンタクといふは、開港地の用語の、やうやく広まりしにやあらん。『見聞誌』に
此日をドンタクと云て休日なれば、異人男女つどひ集て、……今日どんたくにて踊るとのみ答ゆ……元来このどんたくは、月初め八日大どんたくとす。今は四日めに大どんたくあり、是によりて大どんたくとては無しといふ。


など、ドンタクの語各所に見ゆ。

『明六』三十三号(明治八年三月刊)に、柏原氏の日曜日の説あり、「維新の後一異様の日を出現し来れり、其名称未だ一定せず、曇濁といひ、損徳といひ、又呑泥と云ふ。皆西音の転訛にして日曜日の義なり、此日縉紳先生より青年書生に至るまで、訪柳尋花の期となせり云々」と。

『安愚楽鍋』二巻の下に、「書生さんは一六のドンタクに、五人一座」とあるは、ただ休日の意なり。またゾンダフをソンデイと気取りし者もあり。

    ソンデイ  吹よせ

  明日か/\と待つソンデイが過ぎりや尚更ます思ひ

    日曜日   山東直砥

  十字街頭花雨晴、繊塵不v動旭光明、春風天主堂前路、鈞楽高伝礼拝声。
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『明治事物起原』暦日部「幾世期といふ始め」

 幾世期といふ新語は、加藤弘之訳『国法汎論』にあるを始めとすべし、と社友に教へられ、早速同書(明治五年四月の小引あるもの)を見しに、その凡例に、果たして左の数行あり。
「幾世期ト記ス者ハ、世代ヲ著ハス称ニシテ、凡ソ一百年ヲ、一世期ト称ス、故ニ紀元初年ヨリ一百年ニ至ル世代ヲ第一世期ト云ヒ、一百一年ヨリ二百年ニ至ル世代ヲ第二世期ト云フ、他ハ之ニ傚フ」


 同年十二月訳『西洋開化史』の二九頁に、「即ち、第十七世(原註、西洋百年ヲ以テ一世トス、十七世ハ千六百一年ヨリ千七百年中ヲ云フ、後皆是レニ倣フベシ」とあるは、期の字ぬきなり。

 明治六年九月版、橋爪氏の『童蒙手引草』初編下には、「青魚《にしん》を塩にて漬け、樽へ入れ

たくはふることは、ゼエルゴリエー(地名)の漁師キユイヨームブーケルの第十三期に於て発明せり、北アメリカ海岸の、テルヌーフ島に於て、鱈を漁する事は、葡萄牙〔ポルトガル〕の貴族ガスパル第十六期の始めに於て発明せし所なり」と、世の字を略して、ただ期の字のみなり。

 七年六月版『明六』第十号、中村正直の、西学一斑」に「第十二回百年の問(自註、一千一百一年より、一千二百年に至るまて)」のごとく記せり。明治十四年版、松島剛の『社会平権論』の凡例にも、幾世紀とは云々と、ほとんど『国法汎論』と同文の解ありて、今日に同じ。

 以上いつれも期紀同音、偶合は一奇なり。
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『明治事物起原』地理部「公園の名称の始め」

 Parkは、英和辞書類には、「囿又は獣を放し飼ひする所」と訳せるが多く、これに、公園の訳を当てしは、いまだ知るところなし。もつとも、この二字は、『北史』に、「任城王澄、為二定州刺史、表減二公園之地、以給二無業、」とあるよしなれば、支那にては、古き熟字なり。ただ、今日の公園とは、その意味同じからず。

 わが公文に、はじめて用ひしは、六年一月の、公園設置の布達なるべし。

    囿園   大沼 枕山

  囿似2文王大為1v小、放2他鶴鹿1使v縦観、御溝更表偕楽意、儘許2士民1投2釣竿1。
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『明治事物起原』交通部「郵便はがきの名付け親」

 (五)郵便はがきの名付け親 前島密の『鴻爪痕』に、大蔵省五等出仕にて、紙幣局印刷部の監督なりし青江秀は、駅逓権正前島密の旧友なり。その者の案にて、西洋のポストカードを、はがきの名とす。当時二つ折りの紙を用ひしは、いまだ厚紙のなかりしためにやと見ゆ。切手は、従来、世上に、通用の酒切手、鰹節切手などの切手をそのまま用ひたり。郵便はがきの創始時代の現物には、いつれも「郵便はがき」または「郵便はがき印紙」など印記され、公文書類には、「はがき紙」「端書」「葉書」など、色々に書き、一定せる名はなかりし。
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2005年03月12日

明治初年の著訳書(明治事物起原 第八)

 明治十一年十二月刊行『溺濘叢談』第一号、末広重恭の「著書翻訳は時勢に従ふの論」の中に左のごとくいへり。(節約)

「今日、木版に刻し、活字に刷し以て世上に発行する者、殆ど汗牛充棟に至る、然れども細かに其の間に就て之を調査するに、其の新刻書目中に於て、十の八九は概ね欧米諸国の書籍を翻訳する者に係り、其の真成の著作編纂と称す可き者は、実に晨星の落々たるに異らず、明治の初年より今日に至る迄の景況を歴観するに、其の流行は年々に変遷有り、殆ど新陳交代の勢を為せる者の如し、其の種類を大別すれば、維新前後より明治二三年に至るまで流行を社会に得たるは、弘く西洋の事情を記し、及び簡略なる万国史英米歴史等なりしが、一変して政体書と為り、再変して法律書と為り、一両年前よりして、翻訳書中に小説雑記等の専ら風俗人情を記載する者を現出し、遂に此等の種類に非ざれば流用を世間に得る能はざるの情景を為すに至れり」


と。簡にして要を得、もつて明治初年の出版書類の概説となすことを得ん。
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丹羽純一郎(明治事物起源 第八)

 明治四十年頃と記憶す、著者、友人の紹介を得て、織田純一郎を訪ひしことあり。当時氏は、東京市外谷中芋坂下団子屋の並びにて、芋坂通りよりは奥まりたる家に僑居せり。始めて欧洲文学の面影を本邦に移植したりし同氏の『花柳春話』は、予の『明治事物起原』中の一資料なれば、その翻訳の動機を質したりしに、氏いふ、かの原書ロード・リツトン著、『アーネスト・マルトラバース』は、英国留学中にこれを得、回航の船中に読了したりしが、帰朝後その要領を訳述せしものなり。僅々五、六十枚(分冊発行なれば)のものにて定価六十銭は当時不廉なりしも、売れ行き好かりしために、発行書肆坂上半七は少なからざる利潤を得たり。その次の翻訳小説は、宗教上の事柄多かりしゆゑ、前書ほどは売れざりし、云々と。

 このとき、予の眼につきたるは、陸奥宗光の草したる原稿二枚を表装して小額となし、これを楯問に掲げおけるなりき。後年、同氏と陸奥氏の関係を知るにおよびて、なるほどと合点したり。

 当時、友人の話によれば、同氏は、俗客を集めて花牌を弄し、また書画を売買して米塩の資となしをるもののごとくなりければ、予はただこの一度尋ねたるのみにて止めたり。以下友人天骨の所談を綴りて、その経歴の一斑を伝へんとす。もとより文書記録によりたるにあらず、談話者の誤謬もあるべく、予の筆録も誤りなきを保しがたく、読者の寛容を仰ぐ。

 織田氏は、もと三条家の用人丹羽氏の子なり。少壮朝命を受けて昌平校に学び、明治維新後、尾崎三良等と同時に英国に留学せり。帰来『欧洲奇事花柳春話』、『竜動繁昌記』(木版五冊)等の著書あり。

 氏の英国留学は、三条実美の子公美の付き添ひなりしなり。しかるに輔導よろしきを得ず、公美をして折花攀柳の人たらしむ。実美これを憎み、終生仕官を差し止む。このとき土方久元座にあり、また氏を面責して、汝男子ならば、ここにて切腹すべし、とまで極言せしといふ。氏これより姓を織田と改む。幸ひに、氏の訳書は好評なりしかば、氏いふ、われ一管の筆、名を成すに足る、何ぞ斗米に腰を折らんと。なほ旧態をあらためず、人は、その友を見てその人の性行を概知すべし。氏の著書『春話』『繁昌記』両書とも、服部誠一校閲と題す。服部は『東京新繁昌記』『東京新誌』等に好んで誨淫の文を売り物にせる卑陋文士なり、その素行知るべし。氏また、つねに黒縮緬の羽織を着流し、ぞろツとしたる身装にて狭斜の巷に出入し、「黒縮緬」の先生の綽名あり。最初、太田氏の二階に寓せしことあり、胃散の最初の広告文は、同氏の草するところなりといふ。後向島に住す。日夜留守がちなりしために、その妻女は、他の男に奔る。ことは後年にあれども、『大阪朝日』の主筆時代に芳紀わつか十七の雛妓を娶る、これ後年まで琴瑟相偕へる琴子夫人なり。

『春話』後、数種の訳著あり、また刑法を警官のために講説す。明治十六年三月頃、山田喜之助、湯目補隆、漆間真学、服部誠一等と相結び、共同出版会社の業を起こしたることあり。後京都府会議員にあげらる。また『大阪朝日』に聘せられて主筆たり。欧米新聞事業視察として洋行せしことあり、これ三度目の洋行なりといふ。帰朝後、陸奥宗光と謀りて、『寸鉄新聞』を発行せり。芋坂の寓居に、額として掲げおけるものすなはちこのときの陸奥伯の原稿なるを知る。陸奥伯、神戸に仕官中、妾腹に女子をあぐ。戸籍面織田氏の養女となしおけり。この女子は、後さらに陸奥広吉の養女となししが、不幸にして夭折せり。織田氏と陸奥伯古河氏との間柄は、かく准親族の関係あり。

 氏の新聞事業につくせし功績はすくなからず。板垣退助と謀りて『社会新報』を起こし、また、京都の『日之出』、神戸の『又新』に、精采ある筆を振ひしことあれども、いつれも時勢の先駆に立ち過ぎたるためか、主筆の位置を永続せしめざりしは憾むべし。東京芋坂下に閑居せしはその後のことにて、まつたく世事に関せず、やうやく窮乏を告ぐ。しかれども一片の侠気あり、慈恵的後援を受くるをいさぎよしとせず、絶えて故旧の門に出入りせず、京都市外田中村に、夫人の縁者あり、老後を送るに都合好からんと引き移りたれども、特に力になるほどのこともなく、ますます窮乏に陥り、五十銭一円の、小遣銭にも差しつかへることあり。しかのみならず病さへ起こりていよいよ窮す。氏に子なく、戯れに無迹と号せしほどにて、死後は家名の断絶を分とす。これより先、ただ二人暮らしにて家庭の蕭条に耐へず、京都大学生某を下宿せしむ。某義気あり、氏の薬餌の資に窮するを坐視するに忍びず、しばしば紙筆の費を節して薬価を代償す。某は親兄弟もなく、天下の孤客なり。氏の請ふに従ひて義子となる。いま法学士にして欧洲に留学す。

 大正十二年の冬、年六十八にて病歿す。訃を聞きて生前の不遇を憐む者多く、村山竜平金一千円、大阪朝日新聞金一千円、古河虎之助金三千円など、意外の香奠を贈られたるは、氏の死後を飾るものといふべし。
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言文一致論(明治事物起源 第八)

 明治十七年十月『東京学士会院雑誌』第七編の一に収めし、神田孝平の「文章論を読む」一篇は、西村茂樹の、文章論に対する異見なるが、本邦の標準は、言語文章を一致するにあるを痛論せるものにて、いはゆる言文一致の首唱なり。

 正木直彦の『回顧録』に、直彦、言文一致を主唱せる懸賞論にて、明治二十年二月、一等に当選し、森文部大臣より、賞金四十円を下賜さる。それより、雑誌『いらつめ』を発行することとなり、山田武太郎すなはち美妙斎に、小説を書かせ、武田安之助を発行人として、世に出し、一木喜徳郎・岡田良平等に頼んで、論文を書いてもらつた、といふ。

『現今名家記者列伝』は、明治二十二年六月版、大屋某の著なり。山田武太郎伝の冒頭に、「我邦に於て、初めて言文一致体の文章を創め、嶄然一機軸を出して以て、二十世紀否十九世紀文章家の為めに、此の一致体なる模範を与へんとする者は、美妙斎主人山田武太郎其人なり云々」。

 山田武太郎は、美妙斎と号し、明治元年東京に生まれ、大学予備門を中途退学、硯友社員として、始めて文学に遊び、『女学雑誌』『以良津女』を発行し、二十一年、中根香亭とともに、金港堂の小説雑誌『都の花』の編輯を主宰して、おほいに名声を揚ぐ。

 美妙斎が、言文一致体にて売り出せしころ、その小説を書くや、行文中、盛んに英語の符標を交じへ、読者をして|や?や!やに食傷せしめき。しかし言文一致の開山たる栄誉は、つひに美妙斎の専有するところとなれり。

    言文一致小説  流寄

  正格に出来ず言文一致と出


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新聞字類(明治事物起源 第八)

 慶応四年五月二日発兌の『内外新報』第二十七号の社告に、「方今我が新報の世に公行するや、益盛大にして、寒郷僻邑も到らざるなく、牧童漁児も看ざるなし。然るに、上書建言の如きに至つては、文字間々了しがたきあり、因て、其二三を検べ、附するに国字を以てし、解するに俚語を以てし、集録して、内外新報字類と名づけ、上梓して以て童蒙に便す。発兌近きにあり」とあり、これが、新聞字引の元祖ならん。

 新聞と官令中の文字を集めて、音訓を付けし字引類は、十数種に上れり。次なるものも、その一つなり。

  『布令必携新聞字引』 明治五年秋、名古屋慶雲堂梓、横一冊。
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2005年03月11日

明治文明に鎔化せる支那書

 本邦蘭学の先覚者が、著述に翻訳に、西洋文明特に医術、天文、地理等諸学を輸入し、明治文明の胞子を形造りしことは、大なる功績といふべし。

 ずつと降りて、明治の新文明鋳成前後、欧米諸国の接触はなはだしきにおよびては、まつ国内有志者の視線は、斉しく泰西方面に注ぎ、彼を知るに急にして、やうやく彼を知るや、翻然豹変して、彼を仰ぎ彼を学ばざるべからずとなし、国士の智識は餓者の食を欲し、盲者の明を思ふよりはなはだし。

 しかし従来の蘭学だけにては間に合はず、間々英仏学に指を染むるものを出せるが、これあたかも俗諺にいふ、泥棒をつかまいて縄をなふと一般、さう早急の間に合はざる憾みあり。

 このときに当たりて、もつとも都合のよかりしは、隣国支那が、本邦よりもやや早く、西洋文明の流れに浸潤し、漢文の著訳書が、そのまま本邦国士の智識慾を療するに足りし一事なり。いまこの本邦学者が、直接に、彼の文明を摂取するまでの問、西洋文明輸入の仲介者として、多大の効を発揮せる漢文書中、もつとも多く坊間に流布せる二、三書目をあげ、その跡を明らかにすべし。

 文久元治の問、老皀館万屋兵四郎こと、略して万兵といふ書店あり。万兵、姓は福田、諱は敬業、鳴鵞と号し、漢学に通じ、東都本所竪川通りに家し、本業は薪炭問屋なりしが、もつぱら西洋文明に関する支那書を翻刻して、新文明を助けし功績偉大なり。

 英国人医師、|合信《ハブスン》氏の医書の、本邦に行はれし数も夥しきものあり。合信氏、初めは広東にをり、後上海に移り、支那にをること二十年、わが嘉永安政の問、『内科新説』『全体新論』『西医略論』『婦嬰新説』等を著はして、西洋医術の根拠あるを示すと同時に、支那医術の譌誤を指摘し、東洋の医界に最新味を吹き込めり。合氏のこの新著を出せしは、もとより販売上の利を射んとするものにあらず、真の済民救世の仁慈より出でし仕事にて、版権を解放し、ただ、図式の粗刻、人を誤ることさへなければ足るとせり。『全体新論』の例言中に、「凡そ此書を翻刻せんと欲する者は、一切の図形款式皆宜しく細心雕鏤すべし、近頃数坊本あるを見るに、形図錯処頗る多く、本来の面目を失却す、閲者須らく当に之を弁ずべし」(原漢文)といひ、『西医略論』の例言中には、「『全体新論』粤東に多く翻刻する者あり、葉遠翁封君刻す所最も精なり、知るべし中土の士大夫、心を医学に留むる者頗る人に乏しからず、此書若し好事者の翻刻する有らば、一切の図式務めて良工を選び

て雕鏤し、以て誤を貼すを免れば幸と為す」(原漢文)と。

かく流布を主とせし本なれば、いつれも万兵の翻刻書目中に出づ。『婦嬰新説』の天安天香堂版翻刻本に、わが安藤桂洲の序文あり。いはく、「近ごろ、英医合信氏の門人墨国瑪玲淵、我が長崎に至り、婦嬰内科二書を福地苟庵に贈る、苟庵(研いふ、源一郎の父)之を翻刻せんと欲して能くせず、之を余に委ぬ、余考へて曰く、是我が邦医人の幸なり、夫れ漢方家は、洋籍を読まず、よむと雖も亦通ずること能はず、是れ其断然此に意無き所以なり、今此の書、既に漢籍たり、即ち或は之を手披目矚し、而して是に由て、善を取り可を撰ぶの念を動かす者有らん」(原漢文)と。この序文の通り、婦嬰、内科の二書はもちろん、他の二書も、洋籍に通ぜざりし本邦漢法家に読まれ、数種の訳解本さへ出でしほどなり。

 万兵の医書翻刻について、医博三宅秀氏より、逸聞を得しことあり、この機会に、ここに附記しておかん。以下三宅博士の談なり。

 私の父は三宅艮斎といひ、本所緑町に住宅があつた。万兵の養父を万五といひ、万

屋五兵衛といふ薪炭の問屋、その万兵の家は、本所竪川通り徳右衛門町で、私の家とは川一筋隔つて居るだけ、それに父が、万兵大好きで、万兵が来ると、内の者が、おとうさんの好きな人が来たから、御飯の支度をなどゝいふ位で、来さへすれば、よく話が合ふらしかつた。それで父は、蘭方医だつたが、英方が、幾分か療話が新しいから、英医合信の著書三種『内科新説』『西医略論』『婦嬰新説』に訓点を付け、それを万兵に授けて出版させたのだつた。何でも市内で腕きゝの良工を選び、図版の彫刻にも褶りにも、念を入れ、精良の本に仕上げて(その後大阪から、訓点ルビ付、粗刻の安物が出た)出させたのだが、この三書が、どれだけ漢方医に西洋医術を勧め、速かに国内に普及させる因子となつたか知れない。万兵は、維新後に、東京府に出仕したことも有つた。初めて地券頒布の時、私の住所の地券は直接に、福田氏から手渡しを受けたのであつた。さういふ方面に勤めて居つたらしかつた。

 世間に書物の少い時、有用の書物を出版して、国家の開明を助けたといふことは、大功績であり、是非文部省あたりから、表彰されて、然るべき人物なので、私は此事を、度々平山成信さんに話したことも有つた。が、平山さんも、自分一人にては、どうにもならなかつたと見えて、つい其まゝになつて仕舞つた。福田氏の子は、男子三人、女子一人あつて、其長男は敬助(?)、日本美術協会に、永年勤めて居つた。美術協会に、古器物の展覧会のある時、茶器や香道具を出陳するに、どう飾り付けるが本式か、それに明るく、心得た人が無くて困る、幸ひ此敬助が、よくそれを心得て居るので、協会では、便利を得てゐたらしかつた。この息子も今はなくなり、次男東吾も死んで、三男の驥(?)は生存して居ると思ふ。(昭和五年三月十六日談)


 洋方医書の媒介は、上文にて、ほぼつくせるが、海外地理の支那本もまた、大部のもの数種翻刻されたり。米人ブリチメンの『聯邦志略』二本、英人モウエロの『地理全誌』十本、『海国図誌』十七本、清人徐継雷の『瀛環志略』十本、『英吉利紀略』二本、『乗槎筆記』一本等は、みな箕作父子、塩谷、荒木諸氏の訓点、中には漢字の地名人名に、洋字を添補して翻刻せるものさへあり。洋文に通せざる者が、手披目矚し、海外地理の概念を得しこと想ふべし。

 法学書としては、米人|丁〓良《マルチン》の漢訳、『万国公法』が、もつとも多くわが邦人に読まれたり。これは、ただ法学に限らず、すべての漢訳本中、わが維新の創造に役立ちしものの中の白眉なり。明治の法典翻訳の大家箕作麟祥も、かつて、「わが法津の術語中、権利だの義務だのといふ語は、支那訳の『万国公法』から、それをぬきましたので……」と演説せらる。本書が、かくわが法典に大影響あるばかりでなく、この一部は、実にわが明治初年の外交家の唯一の玉手箱なりし。由利公正が、あるとき、大隈伯爵に向かひ「あなたが、維新当時、一廉の外交通振つてゐたのは、ただ一部の『万国公法』を、肌身離さなかつたためで、もし来客があれば、その愛読の本を、あわてて、机の下に隠したものだと聞いてをりますが、これは本当の御話しですか」と尋ね問ふたところ、伯爵は笑ひながら「まさか……」とだけ答へたと、由利はかつてこれを河野広中に語つたことがある。かういふ風で『万国公法』の一書は、広く上下の問に流布し、つひには「万国之公法」といふ五文字が、あらゆる方面に寵用されしことは、尾佐竹猛著『維新前後の立憲思想』にも論ぜられたり。

 科学界にては、前項合信氏の『博物新編』、米人カヨハン囗訳の『化学初階』英華書院、理雅客の『智環啓蒙』など、代表的な支那本なるべし。中にも『博物新編』は、明治初期の通俗理科書類や、理科の教科書は、多くこの辺に発源せるやに思はれ、『智環』とともに、その翻刻の種類多く、かつそれの和解や字引まで、流布の広がりしこと、本書の広く行はれし証とすべし。

 英和辞書の類もまた、支那本の御蔭を蒙ること少なからず。福沢子囲(諭吉)が、清人子卿の著書『華英通語』を桑港に獲、これを増補出版せるは万延元年にて、日英通弁書の嚆矢なるべし。明治二年に、柳沢信大が、訓点して出せし『英華字彙』も、英人|斯淮爾士淮廉士《スウエルスウエレンス》著はすところ『英華韻府歴階』中の「英華字彙」のみを取りしものなり。

 後年、中村、柳沢、津田氏の手にて訓解を施して出せる『英華字典』、実は日英支三国辞典も、むろん支那本のお蔭だが、その原著者の名は、明記されをらず。

 以上のごとく、わが明治の文明鋳造は、その原料中に、支那の西洋文明書が、媒熔剤として介在したるがために、直輸入の西洋文明の鎔冶を、容易ならしめ、比較的早く好く玲瓏渾成の果を得しことは、争はれざる事実なり。

  開化のゆうれい明六に出て(明六社)  無名子
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物理学の術語(明治事物起源 第七学術)

 物理学の術語、年代とともに変化あり。

 (一)安政三年版広瀬氏の『理学提要』は、今日の分子を極微といふの類、今日と同じからず、「天気は諸瓦斯及水蒸気の渾融に由る」云々など、瓦斯の語は今日と同じ。

 (二)明治五年版『究理通』に、「指頭に名刺と銅貨とを載せ、その名刺を弾きて、銅銭が尚指上に止るは、これ銅貨の鈍勢なり」と説くの類、これは同じからざる例なり。

 (三)明治五年版、東井氏の『発明記事』開巻第一に、汽の説の章あり。全編汽の字を蒸発気の意に用ひ、汽機関・汽筥・汽匱等あり。また、今日の「安全弁」を「免難舌」または「平安頁」と出せるなどは異とすべき方なり。
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法学の語の始め(明治事物起源 第七学術)

 法律を研究する学科を、法学と称するは、津田氏の『泰西』慶応四年刊、および同年四月の『中外』に掲げし、神田孝平の「急務五ケ条」に見えたるを最初とすべし。

 明治七年開成学校法律部を、法学科と称してより、一般に法学と称するやうになれり。
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女学の新語(明治事物起源 第七学術)

 明治六年十月版『学問のもととすゑ』に、「中にも女学、母教とて女も学問して、物の道理に通じ、其子を教へ育つることを大事とす」云々。また明治四年十一月九日、留学五少女皇后宮に謁見の節、「追々女学御取建の儀に候へば、成業帰朝の上は云々」の書き付けを賜ふ。また『明六』八号、箕作秋坪の教育談中に、「今より盛んに女学を起し、力を尽して女子を教育云々」の語あり。右の女学は、ともに女学校の儀なるべし。

 明治二十一年夏の『経済雑誌』に、「若し女学と云へるものあらば、余輩は、男学青年学老婆学なども有るべき筈なり」と難じたるに対し、『女学雑誌』これを弁じて、「当初吾人が始めて女学なる新文字を申出し、定めし窮屈なる漢学者には叱られ相なる熟字を製造したること、何さま開闢以来本邦に類なきの学問にして、已むを得ず大胆にも斯る調合をば致したるものなり。女学は即ち〈婦女子に関する一科の学問〉といへることなり」といへり。

 かく論難したる新熟字女学の二字も、今日にては、絶えて怪しむ者なきに至れり。
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性法の語の始め(明治事物起源 第七学術)

『万国公法』巻一に、「世人若シ国君無ク、王法無ク、天然同居シ、其来往相待ツノ理ヲ究ムレバ、応ニ当ニ如何スベキ、此乃チ公法ノ一種、名ケテ性法ト為ス……其謂ハユル性法トハ他無シ、乃チ世人天然同居シ、当ニ、守ルベキノ分、応ニ之ヲ称シテ天法ト為スベシ」と説き、慶応四年刊瓜生氏の『交道起原』には、これを天道と訳せり。
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