2005年01月27日

左より横書き(明治事物起原 第一)

 明治八年九月二十二日の『読売』に、両国橋巡査分署の立札に、左より横に書ける非常知らせのあるを報じ、「近頃は、横文字に習つて、漢字仮名を、左から書くことが流行致しますが、どんな先生が書き初めたことか、少しも分りません(横文字に添へる時は、また、書ても、少しは理窟がありませうが)。漢字や、仮名ばかりを、左から横に書かれては、お分りのないのも御尤、併し、此節は、流行もの故、外にも沢山書て有ります」とあるは、左行横書きの、なほ珍しかりしなり。
 明治二十一年の春、左行横書きを便とする人々「書方改良会」といふを起こし、機関雑誌『国民必読』を発行せしことあり。菊二倍十二頁、全部左行横書きにて、その範を示せり。が十号までは続かざりし。
 昭和二年九月、東京市麹町区役所落成す。その入口の「麹町区役所」の五題字、左より横書きなるに異議が出て、開業式を数日延期して、これを右がきに、改造せしことあり。


文字は右行か左行か(明治事物起源 第八)
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ヒヤヒヤノウノウ(明治事物起原 第一)

 一議員が、「日曜日に酒店を閉ぢ、酒を売るを禁ずるを欲す」と述ぶ。このとき、その意見を好む人は、ヒヤヒヤ(原註、聴々といふこと)といふ、またこれを好まざる人は、ノウノウ(原註、是はイヤ/\といふこと)といふ。「ヒヤ/\と云ふ語は、今論ぜし議員の説に同意する人の発する語なり、時としては、数人の議員、一時に声を発して、ヒヤ/\と云ふことあり、之をチイアスと名づく、是は、論説する所の議員を悦ばしめ、勢を加へる故なり。又其説に同意せざる議員は、時に依りて、其論議中に、ノウ/\或はボー/\と云ふことあり」。(明治八年五月版議事実見)
 演説を聴きて、ヒヤヒヤノウノウ弥次ることも、この頃より出でしことなり。
    懇親会   流寄
  宴会の演説ついた酒もヒヤ
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当世通語(明治事物起源)

「先生少しく補助し給へ 真に開けた……給へに開けたは、輓近貴賤一般の通語」と明治十年刊『東繁』に見ゆ。「地震 小吏大息して曰く、不日将に地震あらん」(同上)と、「電線切断 諸君之を聴け、何某昨日官を免ず、全く電線の切断せしに由る」。(同上)

 通語といふ一種の流行語なり。
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幸運のために(明治事物起源)【幸福の手紙】

 大正十五年の夏、「貴下の幸運の為めに」と題し、「この手紙を受取つたら、早速友人三人に対し、之と同様の文句にて発信せられたし。幸運立ろに来るべく、若し発信せざれば悲運来らん云々」、受信人も薄気味あしきため、いやいやながら発信するものの、その迷惑察するにあまりあり。友人に二通出せば二回目に九通、三回目には二十七通、四回目にはハ十一通といふ莫大なる郵書の氾濫を見るに至るべく、知名の士は受信の数も多く悲鳴をあぐるに至る。警視庁においては、同年七月、赤坂青山南町吉田興作外六名に対し罰金五円を科したるを始め、各署においても極力その発信者を罰したるがため、いつとはなしに終熄を告げたり。
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姓名改称の禁(明治事物起源)

 明治五年八月二十四日、華族より平民に至るまで、自今苗字名ならびに家号とも改称相成らず、ただし同苗同名等にて余儀なく差し支へこれある分は、華族および奏任以上は伺ひ出づべく、その余は各官庁において事実取り調べの上聞き届け申すべし、との布達出づ。かく姓名は、改めることを禁ずる大方針なるも、たとへば、同姓名のために、しばしば郵便物や電報の誤配のために損害を来し、あるいはたとへば五郎兵衛、明治右衛門の名のものが、神官僧侶となり、この俗名にては、教導上差し支へるときは、篤とその事実を取り調べて、許否を決するの類なり。


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2004年10月21日

姓名判断(石井研堂『明治事物起源』人事部)

 不幸不運続きの人が、「僕は、どうしてこんなに、マイナスが続くのだらう。名前が悪いのかしら、一つ見てもらはう」とて、姓名判断屋にゆき、鑑定を頼む。すると判断屋は、ある書物を一冊出し、二、三回繙き見て、後、「あなたの、いまの名前では、もツとひどい不幸無運が来ませう。悪くすると、三年めには、大切な人が、亡くなりませう」とおどかす。この方は迷ひをるなれば、強く胸を撃たれ、つひに、性にかなひたる新しき名を付けて給はれと、新名を択ぶことまで頼むに至る。判断屋は、古書物一冊を持ち出し、これを数回ひねくりたる上、秀康とか、正明とか択び、これを命名書と印刷しある奉書に清書して渡す。上なるは、秀吉と家康より、下なるは、正成と孔明より、一字づつ採り集めたるなれど、そのことは口にせず、つひに、区役所に出す改名願まで、草案を立て、法律を潜りて成功するそのくぐる道を伝授し、定価三円五十銭を請求して、改名劇は、ここに一巻の終はりを告ぐ。
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1915年04月01日

昔夢会筆記

公 昔薩摩の人に逢った時に困ったことがある。話をしても言うことがちっとも分らぬ。向こうでは一生懸命しゃべるけれども、少しも分らぬ。何とも答のしようがない。ただふんふんと聴いたけれども、善いとも言われず悪いとも言われず、甚だ困った。

阪谷 御使者にでも来たのですか。

公 やはり国事のことで……。

江間 京都での御話ですか。

公 確か京都だった……。小松でも海江田でも吉井でも、それは話がよく分るが、その人のはちっとも分らなかった。薩摩人の次に詞《ことば》の分りかねるのは肥後人だ。これはどうもよほど分らぬのがある……。外国人が日本語で話をするのも実に閉口する。彼方《あちら》の詞だと分らぬと言えば向こうも止してしまうが、日本語で話すのに分らぬではどうも気の毒で、あれにはまことに困る。



p8889

大久保利謙

『昔夢会筆記』

東洋文庫76

昭和41年10月10日



「公」は徳川慶喜。



【参考文献】

飛田良文



紀田順一郎『明治事件簿』旺文社文庫 p89「憂国の奇僧」(佐田介石)

「薩摩のつぎに詞の分りかねるのは肥後人だ。これはどうもよほど分らぬのがある」
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2017年04月25日

新井白石『西洋紀聞』

凡そ五方の語言同じからねば、たとへば今長崎の人をして、陸奥の方言聞しめむには、心得ぬ事多かるべけれど、さすがに我国の内のことばなれば、「かくいふ事は、此事にや」と、をしはからむには、あたらずといふとも遠からじ。



新井白石『西洋紀聞』(正徳五年)上巻(『日本思想大系』一一頁)、
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