2005年03月11日

独逸語を必修語となす(明治事物起源 第七学術)

 明治四年以後、本邦の医道は、独逸流を宗とし、独逸は学界に重きをなせるが、同十四年九月五日、帝国大学理・文二科も、自今、独逸語を必修語とせり。元来、英語を主とし、独仏二国語は、各自の選択に任せ、二ケ年間、二語の内一語を、兼修せしめ来れるが、ここに至りて、独語、ますます勢ひを得たり。
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独逸語の演説会(明治事物起源 第七学術)

「これ迄、英語演説会は、東京大学三学部を始め、間々各所に行はれたりしが、独逸語演説会に至ては、未だ曾て行はれず、識者の遺憾とする所なりしが、聞く所に拠れば、今般、医学部生徒が打寄りて、独語演説会なる者を設け、已に第一第二の会を開き、爾後毎月二回程づゝ、開会の目的なりといふ。追々には、意味を以て本を読む読書者流がなくなりませう」。(明治十三年夏発行『中外医事新報』第九号)
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賃訳所の始め(明治事物起源 第七学術)

 依頼に応じて、洋文翻訳をやるところは、明治五年秋に始まれり。『雑誌』第五九号広告に、神田雉子町三十番地翻訳所の広告あり。

  十行二十字一枚につき 英文和訳金一円、和文英訳金三分、

 この時代は、翻訳の仕事が多く、「賃訳」といふ新しい言葉さへ出来せり。なほ、翻訳界の大立て物、箕作麟祥先生の、翻訳につきては、その傘下に集まりゐたる人々の実話に、

私が箕作麟祥先生の御世話になりて居ましたのは明治五六年、先生が権大内史をして居られた比、私は翻訳局等外で、先生の配下に居り、役所がひけてから、両国のお宅に、度々書物に参りました。その時、写したのは万国史と覚えて居ります。それは賃訳で、先生が翻訳をされ、私が中清書をして、それを辻士革といふ人に廻す。辻がそれを校訂をします。処が、箕作先生は、辻の筆を入れたのを、校正とは言はせない、たゞ校字だけを許されました。それですから、本になつたものに、辻士革校とあり、校正とはありませぬ。辻といふ人は、文を直すのが中々上手でございました。先生の翻訳されたものを、私が中清書をし、辻が筆を入れたのを、先生が一応見て、それを私が浄写するといふ手順で、長い間やりました。

 万国史の賃訳は、十行二十字で先生の御所得が一枚二円かで、辻が二十銭を頂き、私は二銭づゝ頂きました。

 其時分、翻訳局は、正院の内にありました。岩倉公の屋敷の隣りで、二重橋から馬場先門へ行く道の左側、只今原になつて居る所にありました。其頃は、翻訳局と言はなかつたかも知れませぬ。それから御廏の跡に引移りました。其の時は、確に翻訳局と云うて居ました。(池山栄明談)

 箕作先生が、仏国法律を訳される時分には、辻士革といふ人が居て、筆記をしました。それは先生が前に読んで置かれて、大抵午前の仕事にして、口訳をされました。午前だけで八九枚は翻訳が出来たやうに覚えて居ります。辻といふ人は、前は、開成所の筆記方をして居て、それから文部省に来た人で、校合をするのが役でありました。原書は読めなかつた人です。(鈴木唯一談)

 辻といふは、ヘイ/\した漢学先生、妙な人でしたが、箕作先生から〈斯ういふ意味の字は〉と聞かれると〈それなら、斯ういふ字ではどうでございませう〉と言うて、字の工夫をする、それで、箕作先生が、翻訳をされると、辻が目を通すことに為つてゐました。(原田網彦談)

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直訳本の流行(明治事物起源 第七学術)

 英文を義得せんとする初学者用として、リーダーの直訳本の発行、一時に流行せり。明治十六年四月四日の『絵入自由』に、「ウヰルソン氏第一読本直訳、右はウイルソン第一リードルの訳文(錦織精之訳)に英音のかなを冠し、一二三を以て反り点を付したる書にして云々」などの広告を見るは、その一斑なり。

  小僧小便横文字を雪の朝  桂月
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小学校読本の始め(明治事物起源 第七学術)

 明治五年七月、学制を布告し、全国に、小学校の創置を命じ、旧寺子屋教育の面目を一新せんとせり。ただ教員と教科書の供給を先とし、まつ師範学校を開きて教員を養成し、読本の発行を急ぎ、ともに巧遅よりは、むしろ拙速を貴び、一時の急を救へり。

 今日に伝はるところの小学読本の古本を検するに、編纂責任者は、田中義廉・那珂通高・榊原芳野・稲垣千穎等にて、ウヰルソン氏リーダー等を訳して、換骨脱胎し、その挿絵のごときは、原画のまま彫刻したるも多し。その一例として、原文をあはせて下に出す。


小学読本巻一 師範学校編輯文部省刊行(明治七年八月改正)

 田中義廉編輯 那珂通高校正

  第十一丁

汝は杖を携へたる老人を見たるか。

彼老人は路傍の石の上に息ひ其手を杖の上に置けり。

彼の顔と其白髪なるに由りて、其年老たるを知り、又年老たるに由りて屈みたるを知れり。



Wilson's First Reader Wilson Lesson II.

Page 22.

Do you see this old man with a staff in his hands ?

He sits on a rock by the wayside, and rests his hand on a cane.

His face and his white beard show that he is an old man, and that he is bent with age.


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スペル和訳書の始め(明治事物起源 第七学術)

 英人ウエブストル氏のスペルリーングブツクを、東京西村周助訳、明治五年正月官許、京都書房合梓、小本一冊、ナンバー二十九までを訳し、十二までは、その訳語とよみ順を、数字にて示せり。



ヒー ヘズ ゴツト エ ニウ タフブ

He has got a new tub.

彼は た 買 新しき たらいを

一  五 四 二   三



 これ、後年盛んに行はれし独案内の魁なるべし。

 少年学徒の英学熱は、この頃より熾盛を極めしを証す。
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辞典出版の流行(明治事物起源 第七学術)

 明治三十九年前後、辞書辞典と名付くものの出版多し。その内重なるは左のごとし。概して糊と鋏にて成りたるが多し。
絵画辞典・高等小学校教科書辞典・数学辞典・幾何学辞典・家庭辞典・理科辞典・作文辞典・世界歴史辞典(以上郁文館)、化学辞典・日本人名辞典・中学百科辞典(参文社)、日露字典・露和兵要辞典(丸善)、医学大辞典・商業辞典・東洋歴史大辞典(同文館)、日用百科宝典(尚午堂)、日本家庭百科事彙(冨山房)、日本社会事彙(育成会)、英語宝典(武蔵屋)、日本文学史辞典・俚諺辞典(金港堂)。

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新旧書店の交代期(明治事物起源 第七学術)

 洋書店丸善の創立者は、福沢諭吉と交際あり、何彼と、福沢氏に相談し、洋書店の魁をなし、つひに、今日の盛を致せりと聞く。同じ福沢氏を崇拝しながら、立派の老舗を破産させし岡嘉のごときもあり。

 芝太神宮前の岡田屋嘉七といへば、山中市兵衛などと肩をならべ、押しも押されもせぬ書店なりき。山中の方は、出版をもなせるが、岡嘉の方は、明治後には、新版を出さず、ただ古本のみを扱へり。

 明治維新後は、上下とも学風変革したれば、岡嘉の営業地は、三田の新学郷に近く、店頭に尋ね来る客は、パーレーの万国史ないしスペル、リーダーの望みばかりにて、和漢書を尋ね来る者とては少なく、岡嘉すこぶる営業上煩悶の折から、ある日先生に面接の機あり。先生より、西洋の本は、二十六字さへ学べば、うら店のかみさんも、科学書を読みて、汽車電信の真理を究むべし。漢学などは、玉篇の字数二万七千は、まだ少ない方だ、文字を覚えるだけで、一生を終はつてしまふ。で、同じ本屋を営むにも、洋書を商ふは、国家の文明を助ける機関になるが、漢籍なんか商つたのでは、ただ天下の穀つぶしを製造するに過ぎない、天下これほど割の悪い商売はないと、一席のお説教を聞かされた。

 岡嘉は、すつかり先生の説に心服し、洋書店に改革せり。明治四年頃の本には、取次所の連名中に、まだ岡嘉の名を見れども、十三年版の『東京商人録』には、もうその名を見ず。この店の見世仕舞ひの様を一見せし者の話に、「津藩の資治通鑑、加賀藩の欽定四経など、山ほどの本を、荒縄でくくり、馬力で見世から運び出すところを見ましたが、私は、多年古本で飯を食つてをりましたので、アア世がらが変はつたのだ、もつたいないことだと、ひとりで泣きました」と話されしことあり。
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国語伝習所(明治事物起源 第七学術)

 国語伝習所は、日曜日ごとに、国語国文を研究するを目的とし、大成中学校内にあり。明治二十二年十月の創立なり。
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国民英学会(明治事物起源 第七学術)

 明治二十一年、米人イーストレーキと磯部弥一郎と協力、国民英学会を創建す。神田錦町一丁目にあり。

    国民英学会   小原 弘道

  日の出る国の人等が月の入る国の学びの道そ開くる


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外国語学校の始め(明治事物起源 第七学術)

 明治二年、開成所に英仏二語学科を設け、ついで独語を加へ、六年五月に、かつて外務省に設けしところの独露清語学所を文部省に併管し、これを外国語学校と称せり。

 すなはち七年十二月、英語科を割きて、東京英語学校と称し、十年四月、大学予備門と改称す。

 また、地方にては、七年中、愛知・広島・新潟・宮城・大阪・長崎に、外国語学校を設けしが、英語学校と改まり、十二年、これを地方庁の所轄に移せしかば、外国語学校は、東京の一校のみとなれり。
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漢学の末路(明治事物起原)

 明治二年、集議院にて、欧米の文明国同様にする方策を得んとて、おほいに官民の建白を募れり。前島来助(後の名は密)が、漢学を廃して、仮名を一定の国字とし、国文を定むべき建白を出せるは、このときなり。また、昌平学校教授試補の肩書ある長野卓之允は、贅書を焼くべき議を出して、おほいに尖端を切れり。その略に、

「漢籍ハ、輓近舶載ノ書籍、充棟汗牛、無用ノ文字過半ニ属シ、其教化ニ害アリ、願ハクハ、章句註解ノ末説、浮華諧謔ノ文辞、其他天下ニ裨益之レ無キ書籍、尽ク灰燼ニ御附シ被v遊候ハヾ、天下人々眼目ヲ拭ヒ、経済有用ノ学ヲ磨励シ、邁世ノ俊傑出ツ可シト奉v存候」

と。これは、二年五月の議案録に出てゐるが、流石の名論も、賛成者がなくて終はれり。
また、同年九月十二日下問の議案に、
  皇漢学合併被2仰出1候に付ては、博士共合議の上、略規則相定め、奉v仰2朝裁1、綱領如v左、
  一、皇国学神を祭り、孔廟釈典御廃止の事
  一、漢籍を素読することを廃し、専ら国書を用ひ候事
   (上級・中級・初級の句読書目、および講義質問の目あり〉
 同十七日、これを会議にかけしが、要するに、規則変更なきを可とするといふ多数説に決し、漢籍廃止令も出でずに済みしが、漢書漢字は、急転直下、その価値を失喪せることいふまでもなし。
 明治十年三月版『一覧』の、盛衰の衰の方に、「漢籍古もの」あり。
    漢学   奥田 士豊
から文字は猶かき乍らから書を読む人まれになりにけるかな
    同     杜田 竜青
唐詩をうたひ乍らに作る人たえ/\にこそ世はなりにけれ
    書生   新作都
きうり/\と言はんすけれど河童野郎のへぼ書生
    蟹字横行   新詠
蟹字横行鳥跡頽、儒生(ノ)気焔比(ス)2寒灰(ニ)1 六経不用焚坑(ノ)惨(ヲ)、一切束(ヌ)2他(ノ)高閣(ニ)1来、
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女速記者の始め(明治事物起源 第七学術)

 女子速記者が、公開演説場に出でて速記をなせるは、佃与二郎の門弟なる二女子(大沢とよ十七年、中村たま二十四年)が、明治二十二年十二月九日、厚生館の廃娼演説会の速記に出でしを嚆矢とすべし。
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大橋図書館の始め(明治事物起源 第七学術)

 明治三十五年六月十五日、大橋図書館開業す。同日はあたかも博文館創立の十五周年記念日なり。同館は、大橋佐平が、川上大将の旧邸を買ひ、その邸地内を敷地として、建設に着手し、後嗣新太郎が、これを完成せしものにて、私立図書館の始めなり。
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記憶術の始め(明治事物起源 第七学術)

 和田守菊次郎、記憶術の発明を発表せしは、明治二十八年なり。ところどころにてその実験を試み、連絡なき数字等をいひあてること、これを掌上に探るがごとし。同年七月ころ、類似の同法、陸続世に出づ。
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英語にて御安着祝辞(明治事物起源 第七学術)

「このごろ聞く、京都に於て、中学校にありし女子数人、御巡幸の折から、洋語をもて、御安着を祝し奉りしとそ」。(明治六年刊世界婦女往来)
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ウエブスター字書輸入の始め(明治事物起源 第七学術)

 万延元年、わが咸臨丸、米国に渡る。帰るに臨み、福沢諭吉、中浜万次郎の二氏、おのおのウエブスター字書を購入して帰れり(福沢自伝)。これ、本邦に、同辞書を輸入せし鼻祖なるべし。
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2005年03月09日

「ですなあ」訛(水上滝太郎「芥川竜之介氏の死」)

 文壇の人は好んで「いいですなあ。」とか「感心するですなあ。」とか「怪《け》しからんではないですか。」とかいうような言葉を使う。軍人が、東京生れたると東北生れたるとを問わず、「そうじゃ」「いっちょる」というような九州弁を使うほどあさましくはないが、文壇人の「ですなあ」訛《なまり》も随分耳ざわりである。『新潮』の合評会の速記なぞを読むと、すべての人が「ですなあ」訛だ。速記者の癖ばかりでもないらしい。芥川さんの「ですなあ」もひどく似合わないものであった。




水上滝太郎「芥川竜之介氏の死」
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2005年02月26日

かたこと(序)

    かたこと

さたすき侍るころ独の子もたりもとより家まつしけれはおほしたてぬるさまもはつかしのもりめのとさ一おさく侍らてみつよついつゝむつれあふ友達かたらひにもいとつたなきかたことをのみ云侍る佗しけれとひとつくいひしらせんもかきりしなけれはそゝろに這一帖に記してかれにとらすこれはみつから少年のむかしよりいまかゝる老のすゑまてくちに馴ていひ侍をきこしめししおりくしかり給一りし老師の厚恩をおもひいつるまゝ書つけぬ此つゐてにかたはらいたき今案をもみなたゝ言葉もて記し侍るは愚子か見ときやすからんためなり君子名之必可言坦言之必可行也君子於基言無所萄而已とか侍る哉らむされとおろものゝ心にまかせて侍れはよしと云る言葉にあしきもましりあしとていとひ捨し中によきこともあるへし是に留りかれに決すへきにしあらすよく人にたつねあきらむ一きための下書なれは謬れることかすく有一しことおほき中なれはそもなとかは然りとて此一帖さみし捨ることなかれ春の霞立はしめし朝より秋の風のふきいつるゆふへに行つき侍る道のちまたの蹟のあに千里の歩みをむなしうせんやふかきはやしのかたえ枯たりとてなそよろつ木すゑを浅しと見むこのことはりにもとつき侍らは誤を捨て要をとれ穴賢人に対して課ふことなかれふかく函底にひめてをのれか言葉をつゝしむへし他人のために記すにあらすゆめ
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2005年01月27日

横文字の制札(明治事物起原 第一)

 明治二年頃、乱暴者の横浜地内に入るを、監視するために、横浜吉田橋脇に関門を設け、無鑑札の帯刀者は、関門地内に入るを許さざりし。しかるに、外国人経営の乗合馬車に乗り込みし帯刀者、往々そのまま入関する者ありしにぞ、左の欧文制札を関門脇に建て、これを禁上せり。
   (制札訳文) 注 意
  帯刀人は、横浜関門内へ、鑑札無くて入ることを許さゞれば、
  帯刀の日本人を乗せ来る馬車は、関門にて引留可v為v致事
   西暦千八百六十九年(明治二年)四月廿一日
                      神奈川県裁判所
 この制札は、明治四年十一月に撤廃せるが、それまでは、取り締まりを実行したりし。(横史)
 東京も、築地に居留地が開け、外客来往したれば、それ等外人のため、欧文の制札を建てること、明治初年に行はれし。二巳年十月版『繁華一覧』新大橋の図に、車留の欧文制札を書いてあるは、すなはちその一つなり。
 四年七月二十四日、東京府より市内組合の中年寄添年寄に触れ、「市中、橋々其外馬駕籠車止め之場所え、西洋横文字の札差出有之分、不v残取外し、明日中当府へ可2差出1事」とありて、坂部六右衛門外二名より、請書を取れり。これにて、市内の欧文車留等はなくなりしものと見える。前記『繁華一覧』は、この撤廃以前のものなるべし。
 十七年七月の『吾妻』に、一笑話を載す。『車夫の児有り。一日学校より帰り、学ぶ所の課程を復習す。時に西洋数学を石盤に速書し、問ふて曰く、老爺、読み得るや否と。車夫曰ふ、咄汝我を侮る勿れ、個は是れ車止と読む」。
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