2007年05月22日

森鴎外「歴史其儘と歴史離れ」


地の文はこれまで書き慣れた口語体、対話は現代の東京語で、只山岡大夫や山椒大夫の口吻に、少し古びを附けただけである。

森鴎外「歴史其儘と歴史離れ」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/684_18395.html


『日本語の歴史7』平凡社所引(第一章第一節)
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2006年11月07日

素読(そどく)のすすめ

安達 忠夫 / 講談社現代新書


p50-51
謡曲共通語
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2006年02月03日

千代田文庫(明治事物起原 第七)

千代田文庫
 千代田文庫は、皇城和田倉門内にあり。もと、城内山里にあり、山里文庫といへり。明治十七年、皇居御造営の地に当たり、いまのところに移り、その名を改む。つねに多くの図書を蔵置し、内閣記録課これを管理し、諸官衙の請求に応じて貸与す。
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大橋図書館の始め(明治事物起原 第七)

大橋図書館の始め
 明治三十五年六月十五日、大橋図書館開業す。同日はあたかも博文館創立の十五周年記念日なり。同館は、大橋佐平が、川上大将の旧邸を買ひ、その邸地内を敷地として、建設に着手し、後嗣新太郎が、これを完成せしものにて、私立図書館の始めなり。
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浅草文庫(『明治事物起原』第七)

浅草文庫
 板坂卜斎の浅草文庫は、寛永時代のものにて、ここに記さんとするは、明治七年の文庫なり。
 この年、始めて地方官会議を東京に開くはずにて、九月十日を限り出京するやうに、各地方官に通達せり(正院第八十一号達)。だが、その議場に充つべき適当の建物なく、幸ひ文部省所管、湯島の書籍館の閲覧室は、議場に代用し得べければ、七年七月三十一日に、書籍館の所蔵図書を、浅草蔵前なる須賀橋に近きもと米倉地内に移し(明治九年二月免許、明細東京全図、浅草御蔵の南東隅に、文庫とあるところ)、これを博物館所属浅草文庫と称し、八年十一月十七日より、借覧人規則を定め、公私の借覧を許せり。
 十五年二月の『うきよ』第一二二一号に、「浅草文庫は、東京職工学校とせらるゝに付、右文庫の書籍は、残らず本省へ引渡され、追々は、図書館へ移さるゝよし」とあれば、十五年までは、蔵前にありしなり。
 これより先、湯島にありし聖堂の文庫は、明治に入りても、もとの司書係星野寿平といふ者、丹念に整理し、目録を作り、十四万六千何百巻かを調べ上ぐ。その新製目録は、ただ経史十集の四部に分類するのみならず、外題の字画引き、音引き、倭音引き、外題の字数引きの五種を作りしは、なかなかの丹精なりし。後の女子師範学校の前に、大建物が出来、ともかく、ここにて、誰にも読ませるやうになりをりしなり。
 浅草は、御蔵のあとにて、後の高等工業学校のところ、そこに四棟の土蔵を建てて、書庫とせり。浅草文庫の蔵書銅印の文字は、三条実美の版下にて、書庫の鬼瓦の文字は、それの放大なり。いつれも博物館長、町田久成好事の業なり。
 ずつと後年の話なるが、その文庫の鬼瓦が、上野の寛永寺に伝はり、内二枚は、大槻如電翁に転伝し、如電翁それを、浅草伝法院に寄附して、現存す。

浅草文庫(はてなキーワード)

浅草文庫(植松安)
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2005年10月10日

『旧事諮問録』大奥の事

第四回 明治二十四年四月二十三日
大奥の事
答問者
 旧幕|中臈《ちゆうろう》箕浦はな子
 同|御次《おつぎ》佐々鎮子
岩波文庫による

◎問 将軍の御言葉はどういう風ですか。古本《ふるほん》で二代将軍の御言葉を見ましたが、「おじゃる」というようなことがあったようです。やはりそんな言葉を遣《つか》ったのですか。
◎答 御自分様のことを「こちら」と申されました。
◎問 御付の方の言葉は、やはり遊ばせ言葉でしたか。
◎答 さようでございます。
◎問 下方《しもかた》で遣っている遊ばせ言葉と同じですか。
◎答 さようにございます。将軍様は御自分のことを、自分が自分がともおっしゃったこともございました。此方《こちら》とか自分とかおっしゃいました。
◎問 御台様は何と申されましたか。
◎答 御台様は「私《わたくし》」とおっしゃいました。私は嫌いじゃとか、好きじゃとか、あーじゃ、こーじゃとおっしやったのでございます。公方様は、いやだ、好きだとおっしゃって、別に通常の言語と変ったことはございませぬ。
◎問 彼方《あなた》がたが御台様に何かおっしゃるときは、何というのですか。
◎答 御前《ごぜん》と申します。
◎問 将軍家には。
◎答 上《かみ》と申します。この御湯取は上のであるとか、上の御|薬缶《やかん》だとか申すのでございます。
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2005年05月08日

一字姓

永六輔『坂本九ものがたり 六・八・九の九』中公文庫
「永」という一字名前も差別の対象になった。(p79)


○参考
家庭裁判所で改姓が認められる理由として、一字姓から二字姓への変更がある。
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2005年04月19日

西田直養『筱舎漫筆』巻五「闕字弁」

屋代翁の説に、皇国にては文書に闕字の例なし。近来漢文にならひて、闕字にするは和学者の杜撰なり。また文書の末に、序跋などに年号をかき名をかくに、別にはなしてかくこと古例なし。古今集の序を始として、代々の勅撰すべて、本文とかきつゞけなりとあり。いにし年、江戸にてきゝしをいまおもひ出しぬればものしつ。


西田直養『筱舎漫筆』巻五「古本の点」
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西田直養『筱舎漫筆』巻五「人の名」

いにしへより、人の名に熟字もてつけたるあり。春道列桜、大江千里などいくらもあり。かゝる名は和漢にわたりていとめでたけれど、貫之、敏行などいへるは、字音もて唱へなば、聖語の味もをかしかるぺけれど、つらゆきといひては、つらとは列なる事か。又類かにて、ゆきとは雪か。行かにて、列行といひても、頬雪といひても義あらず。又としとは、年又敏をもよめれど、是又ことわりなし。かゝる名ことにおほし。聖賢の金言もて名づくるなどは、なほ字音もて唱へまほし。
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2005年03月26日

徳田秋声「二十四五」十二

 客の中には、隆一が東京へ出てから、今度も八年振で逢ふやうな人もあった。(中略)貴婦人風に細い金鎖を垂してゐる、東京語《とうけうことば》の上手な女もあった。然云ふ女は然云ふ女で、厭に澄してゐた。



『明治文学全集』p205上
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『なるべし』262「名乗を反す」

一 名乗を反すといふ事、何者のしはじめたる事なる。今の世には王公大人の定れる法のやうになれるは、上をまなべばなり。詞花集の比よりと聞ゆ。異国には、斉の明帝の、ことのほかに物をいまふ性にて、人の名をかへしたる事あり。それは、唐音にて、ひゞきのかよへるをにくめば、さもあるべし。此国にては、和訓にてよむなれば、かゝるさまたげもなし。唯占術の一つになりて、人のまどへるなり。韻鏡といふ物は、唐音を正すべき為に作れる書なるを、うらかたの書のやうに覚ゆるは、おろかなる事のいたれるなり。韻鏡にのせたる字は、一音なる字多き中にて、近く聞きなれたる字を一つ出せる事なれば、その字の義にてのみ、吉凶をさだむべきやうなし。一音の字多き内には、あしき義の字もあるべけれども、とにかくに書面に見えたる字の義をのみとれるは、易の辞などのやうに心得たるにや。此故に今の世には、とほり字の同じくて、うまれしやうの同じき人は、皆同じ名のりなり。名乗のおこなばれぬ世なればこそ、かくにてもまがひもなげれ。昔のごとく、姓と名乗とにて、世におこなばゞ、一万の人のあつまりたる都にては、同名の人の四百も五百もあるべきなり。



○可成三註


一 名乗を反すといふ事、何者のしはじめ、

○詞花集、日本七十六世康治天皇之時。崇徳上皇命2(シテ)藤原(ノ)顕輔1撰焉。

◎章按、詞花ノカヘシ邪ノ字ニナルト云コト、九条家日次記ニ見エタリ。詞花集ハ人皇七十六代近衛帝ノ時、藤原顕輔ニ勅シテ撰セシム。字ヲ反スハ、コノ時ニ起リ、名ヲ反スハ、人皇百八代後陽成帝文禄ノ頃ヨリ甚盛ニナリタリ。

 則按、名ヤ、字ヤ、最字ヲ撰ムベシ。イニシヘ申繻ガ名ヲ論ゼシ故実取ニ足リ。此事ハ、左伝ノ桓公六年ニノセタリ。韻鏡ノ反切ヲシ出シタルコトハ、近キ世ノナラハシナリ。切字ノコトハ、西域ヨリ中華ニ伝ヘタルコトナリ。古方ニシルシ侍ル。又字ノ偏旁ヲ以テ、相生相尅ヲミタリ、惣括図ノ五行ヲ配当セシヲ以テセンヤ、イカニト云ニ、字ノ偏旁ニ合セ考ユレバ、齟齬スレバナリ。後世字劃ヲ以卦ヲ起シ、易語ヲ引ゴトキハ、売僧ノ弄戯ナルベシ。

 則按、事物紀原曰、切字本出2西域1。漢人訓v字。止曰3読如2某字1。未v用2反切1。然古語已有2二声合為v一者1、如2不v可v為v〓、何不v為v盍、如v是為v爾、而已為v耳、之乎為v諸之類1。以2西域二合之音1。蓋切字之原也。瑯耶代酔曰。宇文周時有2亀慈国人1。来并伝2其西域七音之学於中国1。於v楽為2宮商角徴羽変徴之七調1。於v字為2喉牙舌半唇之七音1。蓋有耳字天竺妙語多由2於音1。中国之人亦所v未v知v之也。元世祖時巴思八得2仏氏遺敦1。制2蒙古字平上去入四声之韻1。分2唇歯舌牙喉七音之母字1。甚簡約。而凡人之言語尚有2其音1者。一無v所v遺。

 又曰。七音韻鏡出v自2西域1。応2琴七絃1。従衡正倒展軽成v図。不v比2華音平去上入1而已。華有2二合之字1。梵有2二合三合四合之音1。亦有2其字1。華書但琴譜有v之。蓋琴尚v音。一音雖為可一字該必合2数字之体1。華音論v読必以2一音1為2一読1。梵音論諷雖2一音1。而一音之中有2抑揚高下1。二合者其音易。三合四合者其音転難。大抵華人不v善v音。今梵僧呪v雨則雨応。呪v竜則竜見。則華僧雖v学2其声1而無2験者1。実音声之道有v未v至也。



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2005年03月24日

五音相通の言葉はやる(『大江戸春秋』)

『大江戸春秋』三田村鳶魚『未刊随筆百種』第二〇巻(新編一一巻)p400401



(明和年間)

五音相通のこと葉はやる、

とんだ茶釜がやくはんとはける、
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2005年03月23日

『明治事物起原』金融商業部「広告霞字の始め」

 明治二十六年、村井吉兵衛紙巻き煙草ヒーローを売り出してより、盛んに広告を行ひ、同二十八年京都における第四回博覧会のとき、如意ケ岳の山腹に霞の棚引けるごとく、白くヒーローの四大字を造り出したり。しかるに勝景を俗了したりとて、各新聞雑誌の非難説おほいに沸騰し、京都市会はつひに村井氏に命じてかの広告撤去を命じたり。しかるにいまや都鄙鉄道の沿線など広告文字ならざるなきに至れり。
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2005年03月12日

四十八字《いろは》新聞紙(明治事物起源 第八)

 四十八字新聞紙は、半紙倍版の木版一枚褶りにて、第一号は明治六年第一月の発行、本局は、本所相生町五丁目二十一番地新々社なり。発行を広く知らしめるための、びらあり。まいにちひらかなしんぶんしの、びらの大にはおよばざれども、左のとほり、同式なり。また仮名字だけにて一切まに合はせるとの旨趣、その仮名文の書きかた、行の終はりにハイヘンを施すなど、あまりによく似たれば、この二種の新聞紙の発行は、あるいは同一人にやと思はるる節あり。



官許

四十八字新聞紙《いろはしんぶんし》

このしんぶんしはいろは四十八字にて よのなかのいまのありさま まいにち/\のおふれ そのほかめづらしきはなし むつかしきことのよしを一々しるし たれにもよみてたのしみになるおもしろきしんぶんしなり

              新々社
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西洋小説翻訳の始め(明治事物起源 第八)

 泰西小説を、わが国語に翻訳して紹介したるは、徳川初期時代の伊曾保物語を嚆矢とすべきか。近古安政四年九月には横山由清(保三)が、『魯敏遜漂行紀略』を出したるあり。同書は小本一冊、川上冬崖の模写に係る三図を木版彩色に摺りて口絵となし、本文十五丁解題三丁あり。

 明治維新当初より、西書の訳述少なからざれども、多くは科学、法律、政治等知的方面のもののみにして、いまだ文学方面におよばず、そのこれあるは、明治十年以後のことに属す。

 イ 『和蘭美政録』は、神田孝平が、文久元年に、和蘭の小説二編を翻訳せるものを合はせし名なり。一つは『楊芽児奇談』、一つは『青騎兵並右家族共吟味一件』なり。写本のまま、明治に伝はり、なかんつく『楊談』の方は、明治十年九月以後の『花月新誌』に連載し、また二編とも、明治二十四年一月以後の『日本之法律』に連載せり。『明治文化全集』第十四巻に、『楊談』を収め、吉野作造博士のくはしき解題あり。本書は、ただ西洋小説翻訳の祖といふに止まらず、探偵小説の祖なり。『花柳春話』以前、この訳書ありしを明らかにしおく。

 ロ 『花柳春話』明治十年十二月、『欧洲奇事花柳春話』丹羽純一郎の訳に出づ。ロード・リツトンの原著『アーネスト、マルトラバース』の翻訳にして、漢文直訳体の文章なり。これリツトンの作の本邦文壇に紹介せられたる濫觴にして、兼ねて明治文壇における翻訳小説の嚆矢なり。
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版権保護の始め(明治事物起源 第八)

 幕府その威力を失ひて、百事弛廃し、出版界も、重版偽版の不徳漢乱出し、これを取り締まる法律の力が完備せず、福沢氏は、慶応三年版『事情』の外篇の三に、「書を著述し図を製する者も、之を其人の蔵版となして、独り利を得るの免許を受け、以て私有の産となす、之を蔵版の免許、コピライトと名づく」といひ、同四年四月、『中外新聞』第一二号の、神田孝平の重版論一篇となり、「凡そ国家の風俗智識を向上せんが為めには、有益の書籍の出つるを奨励すべく、そして其の著述者に、重版厳禁の権利を与へて、其利益を収めしむるを法とす」を論議するに至れり。

 明治維新後、版権保護の法律の始めは、二年五月十三日発布の出版条例がそれなるべし。その第三項に、「図書ヲ出版スル者ハ、官ヨリ之ヲ保護シテ専売ノ利ヲ収メシム、保護ノ年限ハ、率ネ著述者ノ生涯中ニ限ルト雖モ、其親族之ヲ保属セント欲スル者ハ聴ス」とあるもの、すなはちこれなり。「三十年間、専売ノ権ヲ与フベシ」と版権に年数を明らかにせしは、八年九月三日改正の出版条例に始まる。
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活版も整版同様(明治事物起源 第八)

 明治五年正月発布、文部省の出版条例第十三条に、「凡ソ活字ニテ出版スルモ、亦此条例ニ同シ、新聞紙.図画・肖像・戯作等モ、亦之ニ準ス」とあり、活版ものも、整版同様に、取り扱ふことを明らかにせり。

 維新前にありては、活字版は、粗拙の版式にて、これを解版すれば、その版を留めず、そのとき限りのものなれば、活版の無届け出版などは、これを黙許するくらゐに軽き意味の版式なりしが、明治後の洋式活版は、精美簡捷なれば、整版同様に、視ることとはなれり。
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2005年03月11日

日比谷図書館の始め(明治事物起源 第七学術)

 明治四十一年十一月二十日、東京市日比谷公園内に、日比谷図書館を建設す。東京市の経営なり。昭和十三年三月三十一日限り、一時閉館、建物傾倒の恐れあるためなり。後また開館す。
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日本エスペラントの始め(明治事物起源 第七学術)

 明治十六年の『東京学士院雑誌』第四編に、神田孝平の「万国言語一致論」あり、一八八七年ポーランドのザメンホフ博士の発明せられたる世界共通の新言語すなはちエスペラントなり。

 わが国にて、この新言語の研究と、普及とを計れるは、明治三十九年頃よりのことなりとす。すなはち三十八年の四、五月頃、東京帝国大学教授文学博士黒板勝美、エスペラントに関する談話を雑誌『直言』に掲げしときは、絶て反応もなかりしが、翌三十九年の五月、読売新聞に再び同氏の談話筆記を掲ぐるにおよび、やうやく世間の注意を引けり。すなはち、岡山の村本達三は、同地高等学校の英語教師ガントレツトが、はやくよりエスペラントを研究し、昨年の始めより、第一第二第三回まで通信教授を開き、すでに六百名の研究者を各地に有するを報じ、かつ自著のエスペラント語彙を添へて贈れり。ここにおいて黒板博士は、岡山においてすでに意外の発達をとげをることをも知れり。よりてガントレツトに交渉して、協会設立のことを計り、また東京安孫子貞次郎の創設にかかる協会を解きて、さらに一大協会を設くることとなり、六月十二日、神田一ツ橋学士会事務所に創立会を開きて、日本エスペラント協会を創立し、直ちに第一例会を開きたり。これを同会の誕生となす。当日集まりたるは、黒板、安孫子二氏を始め、森岡勝二、斯波貞吉、飯田雄太郎等すべて十人なりし。

 同八月に、報告やうの月刊雑誌を発行するに至りしが、同月までに会員数百に満ち、公刊されたる書籍には、長谷川二葉亭著『世界語』(二十銭、彩雲閣版)、ガントレツト・丸山両氏編『エスペラント文法』(三十五銭、有楽社発売)、加藤節編『エスペラント教科書』(八月中に出版のはず)、村木達三編『エスペラント小字書』(二十銭、有楽社発売)等の書目見え、また夏季講習会を設くるなど、その勢ひなかなか盛んなりし(三十九年八月五日版『日本エスペラント』一巻一号)。しかれども僅々二、三年にして、その熱度もやうやく冷めたり。

 明治元年、近藤真琴訳『新未来記』中に、「かく諸国の人打交り、皆々同じ言葉にて相語らふはいつくの言葉か」「これは旅の言葉といふものなり、諸国の人民次第に交はり、いつともなしに万国に普通の言葉いで来り、これさへ知れば何国にゆきいつくの人と語るにも分らぬ事のなき故に、旅ゆく人は誰もかも之を用ひていはざるなし、されども世界一般の言葉となるは猶此上数百年の後なるべし」といへるは、今日のエスペラント語の予言のごとし。
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日本最初の盲唖院(明治事物起源 第七学術)

 (一)海外の紹介 『柳川日記』万延元年五月十一日、ネウヨルクの条に、「盲目には、紙に文字を高くすり出し、是を以て教ゆる也」と、凸字のことを記し、『岡田小記』にも、慶応元年九月二十日、仏国パリーにて、盲院参観の記あり、凸字のことも述べ、終はりに、一盲生に、日本国のことを話しかけられしことを記し、海外盲学校の現況を紹介せり。

 明治二年版『開智』巻四に、和蘭および仏国巴理斯〔パリス〕の盲院を記せり。「若輩者は、文字を学ばせ、稍成長せし盲人には、音楽を学ばす、扨文字を学ばする法は、厚き紙に凸字に作り、指にて、之を摩探せしむ。又地図の類を学ばするには、山の形は高くし、河海は低くし、都府には銅の針を打ち置きて、之を指にて探らせ、以て其形状を知らしむ。又文字を書くには、針を集めて文字の形になしたる物を取り、之を紙に衝刺して、文を作り、又之を他の盲人に示し読ましめ、其他、織物、籠細工を為す等、種々の職業を覚え、各自対話を得る迄此院に入れおく由なり」と記し、また英国唖院の教法は、「最初五音の発する様子を示し、夫より、文字は指にて定め、其他種々の手真似にて教諭す」と、指字の形を図して、手話法を説けり。

 慶応二年版『事情』一に、「盲院の、盲人に凸字を読ませ、針にて紙に孔を穿ち、地図を指端に触れしめて教へ、唖院の、唖子に指を以てABCを教へ、唇舌歯喉の動機を見て其語を解し、共に談話を通ぜしむる」を説けり。盲唖院のこと、早く国人に紹介せらる。成島柳北の『航西日乗』にも、明治六年二月十五日の条に、その参観記を出せり。

 (二)京都の盲唖学校 京都に古川大四郎といへる奇特人あり。維新のさい、法に触れて入牢す。入牢中日々獄窓前に遊べる両唖児あり。衆童のために罵詈凌辱せらる。古川これを見て惻隠の情に堪へず、出獄の後、これを教へて社会のためにつくさんと志し、出獄のとき、同志者上京第十九区長熊谷伝兵衛と相謀り、明治八年の頃これを起こす。十一年五月、京都府これを拡張して公立となし、京都府盲唖院といふ。実に日本最初の盲唖院なり。

 古川氏は、後大阪市立盲唖学校在職中、明治四十年十二月二十五日病歿せり。

 (三)東京築地の訓盲学院 初め府下築地に在留せる英国医師ホールド、かつて人に語りていはく、日本に盲目者の多きこと、埃及に二倍し、英国に三倍せり。日本の有志者と、共同戮力して、一つの訓盲院を設立し、日本訳の聖書を凸字に製し、事業を始むべしと。独逸亜米利加ルセラン教会堂教師ボルシヤルドもまた深くこのことに熱心し、同志を得るに勉めたり。ここにおいて、明治八年五月、古川正雄・津田仙・中村正直・岸田吟香、およびボルシヤルドの五氏、ホールド氏の宅に会し、始めて訓盲のことを議し、楽善会といへるを組織し、古川氏会頭に選ばれ、新約書ヨハン第九章を、平文の紐育版によりて、凸文出版することをアメリカへ注文し、その費用はかの地の教会にて弁ずることを約せり。同六月、古川氏等四名連署して訓盲院設立のことを東京府に出願す。その書外国人主となり、内国人客たるの姿ありとの説ありて許可を得ず。十一月書面を改めて再び請願すれども、また許可せられず。同九年一月、前島密・杉浦譲・小松彰等の諸氏これに加はり、ともにその方法を議し、同二月三たび設立の願書を出せり。同三月に至り、始めてその許可を得たり。同じ頃、山尾庸三、入会し、従前のことを聞きておほいに驚き、そもそもわが盲人の教育するに、外国人に依頼し、かつ宗教の力を藉りてことをなすは非なり。邦人もつぱら諸有志者と協力し、宗旨のごときは、内外異同を問はず、ただ広く同志者を募り、直ちに盲人を教育せんといふ。会員一同これを賛成せり。西洋熱の熾なりし当時にありて、山尾氏の卓見おほいに賞すべし。当時木戸孝允おほいにこの挙を嘉みし、周旋するところありしが、同年十二月こと聖聴に達し、金三千円を賜はる。同十年一月、訓盲院の設立につきて寄附金を募集し、同十一年七月、築地の海軍省用地を拝借して工を起こし、明年十二月に至りて成る。ここにおいて、明くる十三年一月事務を開き、二月始めて盲生二人を教授す。同年六月訓盲の傍ら、試みに唖生二人を教授す。爾来盲唖の生徒やうやく加はり、同十七年五月、訓盲唖院と改称し、十八年九月、文部省の直轄学校となり、つひに今日の盛況に達せり。

  筆もてば唖も物いふ文化の世  玉 木

 (四)東京盲学校の始め 盲唖学校より分かれし東京府下雑司ケ谷なる東京盲学校は、新築落成し、明治四十三年九月十二日開院式を行へり。新校舎は、総建坪三百七十余坪の平家建てなり。

 (五)盲生用凸字習書出版の始め 九年十一月、盲生用凸字習書いろは四十八字と数字、片カナ五十字等、たて七寸横一尺のもの二十一葉、伊藤庄平によりて出版さる。

  盲唖院  桑田芳樹

教草耳なし山の口なしも目なきこたにもつまん御代かな

  同     加藤 安彦

時にあへば見ぬめの浦の浦人も玉拾ふべき道や知るらむ
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