2005年03月13日

細江逸記『動詞時制の研究』第5章§23(抄)

この間の消息はわが国語の「む」・「べし」とほとんどその軌を一にしている。たとえば

  居り明かし今宵(こよい)は飲まむ霍公()鳥明けむ朝(あした)は鳴き渡らむぞ(万葉集,巻18)

などの「む」は,私の考えでは『今宵は飲まむ』の中の「む」とともに,『うつつにも夢にも我はもはざりき』(万葉集,巻11)などに見える「もふ」(=思う)の意の古語から出たものらしく,1その点はまたIceland語のmunu(=to think;to mean)が"Future Tense"の助動詞となった2のとも酷似している。

次に

  万代(よろずよ)に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲き渡るべし(万葉集,巻5)

などに見える「べし」は疑いもなく「はず」と同語で,それは琉球諸島および付近の言語を調べてみるとわかる。たとえば,宮良当壮氏の大著『八重山語彙(い)』119ページ以下に

   今夜は  月が  出る   だろう

  n'ikka:  tsikε: a:ro:ru  fadz' (石垣)

  n'ika:  s'ik'e: nz'iru   paz'i (鳩間)

  η:gu:ja: tt'i:  agaru  had'i (与那)

のような記載があり,氏はこの"fadzi"などが「はず」である旨を認めておられる。また古くはChamberlainも

   Unui mishocharu hazi = He is about to embark.

などの例をあげ,かつ"hazi"が「はず」であるこことを注意している (Essay in aid of a Grammar and Dictionary of the Luchuan Language,P.89)。これなどは英語の研究者にはあまり重要でない余談のように思われるかもしれないが,実は従来多くの学者を惑わした英語の"Subjunctive Mood"の歴史を会得するのに非常に参考になる基礎をなすものである。ただし,本論はむしろTenseの研究を志したものであるから,ここにはこの問題に入ることを差し控え,もし他日私にMoodを論ずる機会があったならば,その時に述べることとする。それはとにかく,前節に述べたところによって,私は"Future Tense"の本義は『想像(推測)叙述』の語形であることを明らかにできたと思うから,それだけでもこの語形が元来「想」を表示する"Subjunctive Mood"ときわめて緊密な関係にある理由はこれを悟ることができたであろうと思う。そうすれば私の当然なすべき"Future Tense"論はすでに終りを告げたことになり,ここに拙い論考の筆をおいてもよいが,思えば世間に流布する文法書に説かれているshall, willの使い分けの論には重大な誤謬と錯誤とがある3から,以下付説的にその最も顕著な事実をしるして参考に資することとする。






 1.金沢博士は「見る」から出たものと見ておられる(『日本文法論』162ページ,『日本文法新論』256ページ)。

 2.(略)

 3.少しくどいようではあるが私が今論じているのは言語学,文法学の上から最高の研究をなすもの相互のために論じているので,これで普通教育の方便的英語に触れるべきものでないことを断わっておく。


posted by 国語学者 at 01:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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