2005年03月11日

日本最初の盲唖院(明治事物起源 第七学術)

 (一)海外の紹介 『柳川日記』万延元年五月十一日、ネウヨルクの条に、「盲目には、紙に文字を高くすり出し、是を以て教ゆる也」と、凸字のことを記し、『岡田小記』にも、慶応元年九月二十日、仏国パリーにて、盲院参観の記あり、凸字のことも述べ、終はりに、一盲生に、日本国のことを話しかけられしことを記し、海外盲学校の現況を紹介せり。

 明治二年版『開智』巻四に、和蘭および仏国巴理斯〔パリス〕の盲院を記せり。「若輩者は、文字を学ばせ、稍成長せし盲人には、音楽を学ばす、扨文字を学ばする法は、厚き紙に凸字に作り、指にて、之を摩探せしむ。又地図の類を学ばするには、山の形は高くし、河海は低くし、都府には銅の針を打ち置きて、之を指にて探らせ、以て其形状を知らしむ。又文字を書くには、針を集めて文字の形になしたる物を取り、之を紙に衝刺して、文を作り、又之を他の盲人に示し読ましめ、其他、織物、籠細工を為す等、種々の職業を覚え、各自対話を得る迄此院に入れおく由なり」と記し、また英国唖院の教法は、「最初五音の発する様子を示し、夫より、文字は指にて定め、其他種々の手真似にて教諭す」と、指字の形を図して、手話法を説けり。

 慶応二年版『事情』一に、「盲院の、盲人に凸字を読ませ、針にて紙に孔を穿ち、地図を指端に触れしめて教へ、唖院の、唖子に指を以てABCを教へ、唇舌歯喉の動機を見て其語を解し、共に談話を通ぜしむる」を説けり。盲唖院のこと、早く国人に紹介せらる。成島柳北の『航西日乗』にも、明治六年二月十五日の条に、その参観記を出せり。

 (二)京都の盲唖学校 京都に古川大四郎といへる奇特人あり。維新のさい、法に触れて入牢す。入牢中日々獄窓前に遊べる両唖児あり。衆童のために罵詈凌辱せらる。古川これを見て惻隠の情に堪へず、出獄の後、これを教へて社会のためにつくさんと志し、出獄のとき、同志者上京第十九区長熊谷伝兵衛と相謀り、明治八年の頃これを起こす。十一年五月、京都府これを拡張して公立となし、京都府盲唖院といふ。実に日本最初の盲唖院なり。

 古川氏は、後大阪市立盲唖学校在職中、明治四十年十二月二十五日病歿せり。

 (三)東京築地の訓盲学院 初め府下築地に在留せる英国医師ホールド、かつて人に語りていはく、日本に盲目者の多きこと、埃及に二倍し、英国に三倍せり。日本の有志者と、共同戮力して、一つの訓盲院を設立し、日本訳の聖書を凸字に製し、事業を始むべしと。独逸亜米利加ルセラン教会堂教師ボルシヤルドもまた深くこのことに熱心し、同志を得るに勉めたり。ここにおいて、明治八年五月、古川正雄・津田仙・中村正直・岸田吟香、およびボルシヤルドの五氏、ホールド氏の宅に会し、始めて訓盲のことを議し、楽善会といへるを組織し、古川氏会頭に選ばれ、新約書ヨハン第九章を、平文の紐育版によりて、凸文出版することをアメリカへ注文し、その費用はかの地の教会にて弁ずることを約せり。同六月、古川氏等四名連署して訓盲院設立のことを東京府に出願す。その書外国人主となり、内国人客たるの姿ありとの説ありて許可を得ず。十一月書面を改めて再び請願すれども、また許可せられず。同九年一月、前島密・杉浦譲・小松彰等の諸氏これに加はり、ともにその方法を議し、同二月三たび設立の願書を出せり。同三月に至り、始めてその許可を得たり。同じ頃、山尾庸三、入会し、従前のことを聞きておほいに驚き、そもそもわが盲人の教育するに、外国人に依頼し、かつ宗教の力を藉りてことをなすは非なり。邦人もつぱら諸有志者と協力し、宗旨のごときは、内外異同を問はず、ただ広く同志者を募り、直ちに盲人を教育せんといふ。会員一同これを賛成せり。西洋熱の熾なりし当時にありて、山尾氏の卓見おほいに賞すべし。当時木戸孝允おほいにこの挙を嘉みし、周旋するところありしが、同年十二月こと聖聴に達し、金三千円を賜はる。同十年一月、訓盲院の設立につきて寄附金を募集し、同十一年七月、築地の海軍省用地を拝借して工を起こし、明年十二月に至りて成る。ここにおいて、明くる十三年一月事務を開き、二月始めて盲生二人を教授す。同年六月訓盲の傍ら、試みに唖生二人を教授す。爾来盲唖の生徒やうやく加はり、同十七年五月、訓盲唖院と改称し、十八年九月、文部省の直轄学校となり、つひに今日の盛況に達せり。

  筆もてば唖も物いふ文化の世  玉 木

 (四)東京盲学校の始め 盲唖学校より分かれし東京府下雑司ケ谷なる東京盲学校は、新築落成し、明治四十三年九月十二日開院式を行へり。新校舎は、総建坪三百七十余坪の平家建てなり。

 (五)盲生用凸字習書出版の始め 九年十一月、盲生用凸字習書いろは四十八字と数字、片カナ五十字等、たて七寸横一尺のもの二十一葉、伊藤庄平によりて出版さる。

  盲唖院  桑田芳樹

教草耳なし山の口なしも目なきこたにもつまん御代かな

  同     加藤 安彦

時にあへば見ぬめの浦の浦人も玉拾ふべき道や知るらむ
posted by 国語学者 at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語生活史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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