2006年02月03日

浅草文庫(『明治事物起原』第七)

浅草文庫
 板坂卜斎の浅草文庫は、寛永時代のものにて、ここに記さんとするは、明治七年の文庫なり。
 この年、始めて地方官会議を東京に開くはずにて、九月十日を限り出京するやうに、各地方官に通達せり(正院第八十一号達)。だが、その議場に充つべき適当の建物なく、幸ひ文部省所管、湯島の書籍館の閲覧室は、議場に代用し得べければ、七年七月三十一日に、書籍館の所蔵図書を、浅草蔵前なる須賀橋に近きもと米倉地内に移し(明治九年二月免許、明細東京全図、浅草御蔵の南東隅に、文庫とあるところ)、これを博物館所属浅草文庫と称し、八年十一月十七日より、借覧人規則を定め、公私の借覧を許せり。
 十五年二月の『うきよ』第一二二一号に、「浅草文庫は、東京職工学校とせらるゝに付、右文庫の書籍は、残らず本省へ引渡され、追々は、図書館へ移さるゝよし」とあれば、十五年までは、蔵前にありしなり。
 これより先、湯島にありし聖堂の文庫は、明治に入りても、もとの司書係星野寿平といふ者、丹念に整理し、目録を作り、十四万六千何百巻かを調べ上ぐ。その新製目録は、ただ経史十集の四部に分類するのみならず、外題の字画引き、音引き、倭音引き、外題の字数引きの五種を作りしは、なかなかの丹精なりし。後の女子師範学校の前に、大建物が出来、ともかく、ここにて、誰にも読ませるやうになりをりしなり。
 浅草は、御蔵のあとにて、後の高等工業学校のところ、そこに四棟の土蔵を建てて、書庫とせり。浅草文庫の蔵書銅印の文字は、三条実美の版下にて、書庫の鬼瓦の文字は、それの放大なり。いつれも博物館長、町田久成好事の業なり。
 ずつと後年の話なるが、その文庫の鬼瓦が、上野の寛永寺に伝はり、内二枚は、大槻如電翁に転伝し、如電翁それを、浅草伝法院に寄附して、現存す。

浅草文庫(はてなキーワード)

浅草文庫(植松安)
posted by 国語学者 at 13:10| Comment(1) | TrackBack(0) | 言語生活史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ウィキペディアに「浅草文庫」記事を作成した際に参考にさせていただきました。その他の記事の編集に別の『明治事物起原』記事も参考にさせていただきました。
誠に勝手ながら、『明治事物起原』は著作権権切れのソースにつき、註に引用として転載させていただくとともに、ウィキペディアの姉妹サイトでウィキソースという著作権フリー文書収集サイトに、こちらを始めとする幾つかの長い『明治事物起原』記事本文を丸ごと転載させていただきました。
無断で転載したことをお詫びするとともに、有効に活用させていただいたことにお礼を申し上げます。
Posted by ゴンベイ at 2009年10月28日 14:23
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